伝記
平将門は、平安時代の関東の豪族である。延喜3年(903年)の生まれとされるが、これは討ち取られたときの年齢を38歳(満37歳)とする説にもとづくもので、寛平元年(889年)とする説や元慶8年(884年)とする説もある。桓武天皇の五世にあたり、平氏の姓を授けられた高望王の子で鎮守府将軍だった平良将の子である。下総国の豊田・猿島の両郡あたりを勢力の範囲としていたと考えられ、母の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したともいう。
15歳のとき京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を主君とした。しかし藤原氏の政権下では滝口の衛士にとどまり、人柄は忠平に認められたものの官位は低かった。12年ほど在京して検非違使の佐や尉を望んだが、願いは入れられなかった。その後に東国へ下り、その途上で伯父の平国香らに上野国の染谷川で襲われたが、叔父の平良文の援護で撃退した。のちの争乱の原因には諸説あり、良将の遺領を伯父の国香や良兼が分割したことによるとする説、源護の娘や良兼の娘をめぐる争いとする説、源護と平真樹の領地争いへの介入とする説などがあって、確定していない。
承平5年(935年)2月、将門は常陸国で源護の子の源扶らに襲われてこれを撃退し、護の本拠を焼き討ちして、その際に伯父の国香を焼死させた。続いて平良正、さらに良兼と貞盛の軍も破った。朝廷から召喚されて検非違使庁で訊問を受けたが、承平7年(937年)4月の朱雀天皇元服の大赦で罪を赦された。その後も良兼との戦いは続き、良兼が妻子を連れ去る出来事もあったが、将門は結局良兼らを筑波山に駆逐した。3年のうちに良兼は病死し、将門の威勢は関東一円に知れ渡った。天慶2年(939年)には、武蔵国で興世王・源経基と武蔵武芝の紛争を仲裁したものの、経基が京で将門らの謀反を訴えた。将門は5か国の国府の証明書を添えて無実を上書し、朝廷は疑いを解いて、逆に経基を誣告の罪で罰した。
同年11月、将門は常陸国府と対立した。追捕令の出ていた藤原玄明をかくまって引渡しを拒み、常陸府中へ赴いたところ、国府が宣戦布告したため戦いとなった。手勢1000人余で国府軍3000人を破り、国衙を陥れて印綬を没収した。側近となっていた興世王の進言を受け、12月に下野と上野の国府も落として関東一円を手中にした。八幡神と菅原道真の霊の神託が降ったとして「新皇」を自称し、岩井に政庁を置いて、弟たちなどを諸国の国司に任じた。即位には弟の平将平らが反対したが、将門は退けたという。
朝廷は驚き、天慶3年(940年)1月、藤原忠文を征東大将軍に任じた。この時期は西国で藤原純友の乱も起きており、のちに両者は「承平天慶の乱」と呼ばれる。将門は常陸で平貞盛を捜したが見つからず、貞盛が下野の藤原秀郷と兵4000を集めたと知って2月1日に出撃した。川口の合戦で押されて退き、13日には本拠の石井を焼かれた。住処を失った民衆は、追討軍の焼き討ちを恨むよりも、将門らによって世が治まらないことを嘆いたという。14日、手勢400で北山を背に陣を敷いた将門は、北風に乗って優勢に戦ったものの、風向きが南に変わると形勢が逆転し、飛んできた矢が額に命中して討死した。近親者もことごとく殺され、首は平安京でさらされた。獄門の確認できる最古の例とされる。後世、日本三大怨霊の一人として知られる一方、仁義に厚く温かい人物だったともされ、神田明神や築土神社などに祀られている。
同じ年に亡くなった人物
- Eutychius of Alexandria (940年)
- ラーディー (940年没)
- イブン・アブドラッビヒ (940年)
- ルーダキー (940年没)
- イブン・ムクラ (940年)