伝記
石敬瑭は、五代十国時代の後晋の初代皇帝である。廟号は高祖。892年に太原で生まれ、942年に没したとされる。祖先は沙陀から太原に移り住んだといわれ、石氏はタシュケントを出自とするソグド系の姓で、突厥から文化的にも血縁的にも大きな影響を受けたソグド人の家系に属するとされる。一方、正史の『旧五代史』は、春秋時代の衛の官僚石碏や漢の宰相石奮の子孫と記して漢人の系譜に結びつけようとしたが、『新五代史』はこれを疑い、父の名だけを記して、いつどのように石の姓を得たのかは不明だとしている。父の石紹雍(名は臬捩鶏)は、沙陀の族長李克用の軍閥に従って各地を転戦した功により、洺州刺史に任じられた。
若いころの石敬瑭は、口数が少なく厳格な人柄であったと伝えられる。兵法を学び、とりわけ李牧や周亜夫を手本にしようとした。成長すると、勇気と武芸で地域屈指の猛者として知られるようになった。李克用の養子である李嗣源は彼を高く買い、自分の娘を妻として与えた。石敬瑭は李嗣源のもとで戦役に従い、戦場での働きにより、李嗣源の養子である李従珂とともに、その配下の二人の有力な将とみなされた。両者は縁戚でありながら互いを好まず、表には出さないものの対抗する関係にあったという。
923年に李存勖が後唐を建てて後梁を滅ぼした戦いでも石敬瑭は戦功を挙げたが、手柄を誇らない性格のためか、目立った恩賞は受けなかった。それでも李嗣源は彼の功績を知っていた。同光4年(926年)、李存勖は郭崇韜と朱友謙という二人の有力な将軍を殺して軍の心を離れさせ、国は乱れていた。鄴都で起きた兵変の鎮圧に向かった李嗣源は、自らの兵にも叛かれて兵変側に加わることになった。石敬瑭は、いまさら最初から加担していなかったと李存勖に納得させることはできないと説いて、李嗣源に挙兵を決意させた。李嗣源は石敬瑭とともに開封に入り、その後洛陽を攻めた。李嗣源が後唐の明宗として即位すると、石敬瑭は保義軍、宣武軍、河東の各節度使を歴任した。
のちに李従珂が後唐の第4代皇帝に即位すると、石敬瑭の勢力を疎み、天平軍節度使へ左遷した。石敬瑭は国内の反乱に乗じ、契丹の力を頼って皇帝を称し、936年に後晋を建国した。契丹の兵を用いて後唐の都洛陽を包囲すると、後唐皇帝の李従珂は焼身自殺し、後唐は滅亡した。即位した石敬瑭は、燕雲十六州を契丹に献上し、毎年絹30万疋を贈る盟約を結んだ。自分より10歳年下の契丹の太宗(耶律堯骨)を「父皇帝」と呼び、自らは「児皇帝」と称した。こうして服従の姿勢を示すことで、自らの権力基盤を固めたのである。
しかし、この対契丹策をめぐって後晋国内は割れた。契丹に不満をもつ安重栄や景延広らと、現状を保ちつつ国力の充実を図るべきだとする桑維翰らが、激しく対立した。河東節度使の劉知遠が吐谷渾の部族の投降を受け入れていたことが発覚すると、契丹は真意を確かめようとして石敬瑭に問いただし、石敬瑭はたびたび厳しい問責を受けた。天福7年(942年)、石敬瑭は憤死した。享年51。帝位は甥の石重貴(出帝)が継ぎ、後晋の第2代皇帝となった。その評価は後世に厳しい。石敬瑭は、自らの勢力を安定させるために燕雲十六州を異民族の契丹に割譲し、さらに臣従したため、後世、とりわけ民族主義の高まった近代の中国では、南宋の秦檜らとともに漢奸の典型として非難されることが多い。
同じ年に亡くなった人物
- ピエトロ・パルテチパツィオ (942年)
- イドゥアル・ヴォイル (942年)
- クリュニーのオド (942年)
- ステファヌス8世 (ローマ教皇) (942年没)
- アガピオス (942年)
同じ地域に関係する人物
- 耶律堯骨 (947年没)
- 馬騰 (212年没)
- 張宝 (184年没)
- 王之渙 (742年没)
- ノーマン・ベチューン (1939年没)