伝記
ブルナブリアシュ1世は、バビロニアを実際に支配した最初のカッシート人の王とされる人物である。名は「国々の主のしもべ」を意味する。紀元前1500年ごろに、バビロンの町そのものを初めて占領した可能性があるともいわれる。それは、カッシートの諸部族が一世紀にわたってじわじわと侵入を重ねてきた動きの到達点であった。アッシリアの同時代対照王名表では、この王朝の王として10番目に挙げられている。名の綴りは、のちの形のブルナブリアシュに対して、古い綴りで書かれることがある。
治世の出来事として伝わるのは、アッシリアとの国境をめぐる条約である。紀元前1500年ごろ、ブルナブリアシュはアッシリア王プズル・アッシュル3世(在位は前1521〜前1498年)と条約を結び、誓約を交わして両国の国境を定めたとされる。当時のアッシリアはミタンニに従属する小さな国であった。同時代対照年代記は、この出来事をカライン・ダシュとアッシリア王アッシュル・ベル・ニシェシュの条約の後に置いている。しかし、アッシリア王名表のどの写本にも、その後にプズル・アッシュルという王は見当たらない。このためレーリヒは、後代の書記が同名の別人であるブルナブリアシュ2世と取り違えたと考えた。
また、同時代対照王名表は、10番目のカッシート王としてのブルナブリアシュを、イシュメ・ダガン2世と同時代の人物としている。ところが、この王はプズル・アッシュル3世とは42年の治世の隔たりがある。そこで、初期に二人のブルナブリアシュがいて、一人はプズル・アッシュル3世と、もう一人はイシュメ・ダガン2世とほぼ同時代だった可能性も示唆される。ただしそれは、この後代のアッシリアの粘土板が、この点で信頼できる史料だと見なせる場合の話である。この粘土板は、ほかの箇所では年代についてかなり自由な扱いをしているとされる。
ニップルでは1949〜50年の発掘で、土地の授与を記したとみられる粘土の円錐か円筒の破片が見つかった。5行目の名の復元と楔形文字の書体から、この王の治世のものである可能性がある。もしその同定が正しければ、この「記念の粘土碑」は、公的な記念碑というこの種の文書のうち最古の例になるという。
後継については、息子のカシュティリアシュ3世が継いだ可能性があるが、この息子が王だったことを裏づける証拠は状況証拠にとどまる。ウラム・ブリアシュもブルナブリアシュの子である。メツァモルの古代都市の遺跡にある大きな墓から、カエルの形をしたオニキスの分銅が出土し、「1シェケル、ブルナブリアシュの子ウラム・ブリアシュ」という楔形文字が刻まれていた。このウラム・ブリアシュは、海の国(シーランド)への侵攻に成功し、「その地の主」になったらしい。海の国は、メソポタミア南部のシュメールにあたる地域である。バビロンで見つかった蛇紋岩か閃緑岩の槌頭、あるいは扉の取っ手とみられる品には、ブルナブリアシュの子で「海の国の王」であるウラブラリアシュによる奉納の銘が刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
- 中丁 (紀元前 1600年(推定))
- キアン (ファラオ) (紀元前 1600年(推定))
- カムディ (紀元前 1600年(推定))
- スィトジェフティ (紀元前 1600年(推定))
- イアフメス・スィパイリ (紀元前1600)
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