伝記
アル=カースィム・ジャンヌーン(カンヌーン)は、モロッコのイドリース朝の君主である。937年から948年ないし949年にかけて統治し、948年(ヒジュラ暦337年)に没したとされる。ムハンマドの子で、イドリース朝の傍流の出身である。祖父のカースィムは、王朝の第2代君主イドリース2世の年少の息子であった。先代の君主ハサン1世の弟にあたる。
10世紀の初め、モロッコにおけるイドリース朝の支配は崩れていた。イドリース家の諸家系とアブー・サフル家との内戦、ハワーリジュ派の蜂起、新たに成立したファーティマ朝の侵攻、コルドバのウマイヤ朝の介入などが重なったのである。927年にハサン1世が陰謀で殺されると、国は将軍ムーサー・イブン・アビー・アーフィヤの支配下に入り、イドリース朝はコルドバのウマイヤ朝に従う立場に置かれた。ムーサーは929年に、イドリース家の人々が拠り所としたハジャル・アン=ナスル(鷲の岩)の城塞に彼らを追いつめたが、攻め落とせず、千騎を残して包囲を続けさせた。のちにムーサーがファーティマ朝への服従を捨てて、ウマイヤ朝の君主アブド・アッラフマーン3世のために説教を行うと、ファーティマ朝は932年に新たな軍を送ってムーサーを破り、フェズを取り戻した。城塞に閉じこもっていたイドリース家の人々は、包囲軍を襲って追い払い、陣営を略奪した。さらに934年にファーティマ朝の新しい軍が到着すると、その援助を受けて、フェズを除くモロッコの多くの地を回復した。
このとき一族を率いたのが、ムハンマド・ブン・アル=カースィムの子である兄弟のイブラーヒームとカースィムで、カンヌーンの名で呼ばれたカースィムが単独で指導者となり、ハジャル・アン=ナスルを本拠とした。937年に権力を握り、ファーティマ朝の宗主権のもとで統治したとされる。ファーティマ朝の支援でムーサーが敗れて殺されると、リーフ山地を中心とする北部に自立した首長国を築き、バスラ、アジーラ、タンジャなどを支配した。938年にはアジーラを占領したが、アジーラはウマイヤ朝のアブド・アッラフマーンに助けを求め、セウタの総督が援軍を送ったものの、占領を防げなかったという。ウマイヤ朝との対立は、その後も治世を通じて続いたとされる。
944年以降、カースィムは立場をウマイヤ朝の側に傾けたとされる。948年に没すると、息子のアブー・アル=アイシュとアル=ハサンが跡を継いだ。アブー・アル=アイシュ・アフマドは、人柄と学識から「アル=ファドル」と呼ばれた人物で、ウマイヤ朝への服従に転じたが、タンジャの割譲を求められて応じた。のちに王国が縮小してバスラとアジーラのみとなると、ヒジュラ暦343年に位を退き、アンダルスへ渡ってジハードに従事し、959年に戦死したとされる。弟のハサンが跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ロマノス1世レカペノス (948年没)
- Qudama ibn Ja'far (948年)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。