伝記
アルフォンソ12世は、1857年11月28日にマドリードの王宮で生まれたスペイン国王である。在位の始まりは1874年とも1875年ともいわれるが、1885年まで在位し、「平和をもたらす者」とあだ名された。その即位によって第一共和政は終わり、王政復古と呼ばれる時代が始まった。女王イサベル2世と王配フランシスコ・デ・アシスの子で、誕生後にアストゥリアス公の称号を受けた。王配が同性愛者だと知れ渡っていたことから、実の父は近衛の隊長エンリケ・プイグ・イ・モルトか、別の人物だという説があり、宮廷にはうわさが流れた。アルフォンソには姉イサベルと、妹マリア・デル・ピラール、マリア・デ・ラ・パス、マリア・エウラリアの4人のきょうだいがいた。誕生から間もない12月7日、王宮の礼拝堂で洗礼を受け、教皇ピウス9世が名代を通じて代父を務めた。
1868年の革命でイサベル女王と家族はスペインを追われ、パリへ移った。アルフォンソは11歳になる直前で、パリでは名門の私立学校スタニスラス校に学んだ。1870年2月末にはローマで教皇から初聖体を受けた。ブルボン家支持者のあいだには、王朝復興は女王が王子に退位して譲ってはじめて可能になるという考えが広がり、同年6月20日にイサベル2世は王子に王位を譲ると表明した。普仏戦争のため一家はいったんジュネーヴに移り、アルフォンソは公立の学校にも通った。その後、ウィーンのテレジアヌム王立帝国学院で1872年2月から1874年6月まで学んだ。さらにイギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校で軍人としての訓練を受けた。
1874年、支持者らの支援を得て王位を要求する宣言を行い、スペイン王政復古が始まった。その年の終わりに、陸軍元帥セラノは北部の連隊を指揮してカルリスタとの戦闘を開始し、陸軍准将マルティネス・カンポスは南部を次々に攻略し、王の名においてバレンシアに入城した。アルフォンソはバルセロナ、バレンシアを経て、わずか数日でマドリードに到達し、自由主義的な憲法の受諾を宣言した。カルリスタに対して強力な宣伝を行い、大叔父モリナ伯ドン・カルロスとその後継者への支持は失速していった。
君主として統治を学ぶ機会は少なく、在位も短かったが、亡命の経験が生まれつきの資質と正しい判断力を磨いたとされる。慈悲深く思いやりのある心根が、大多数の国民の支持を得た。特定の政党の手先にならないよう自らを律した。1885年にはコレラの流行した地域や、地震で崩壊した都市も恐れることなく訪れた。その治世は、久しぶりにスペインが内政・外交ともに平和だった時期と重なり、経済も平常に戻った。1878年1月23日、従妹のマリア・デ・ラス・メルセデスと結婚したが、彼女は半年後に死去した。1879年11月29日にはカール・フェルディナント大公の娘マリア・クリスティーナと結婚し、1男2女が生まれた。オペラ歌手エレナ・サンスとの間には2人の庶子もいた。1885年11月25日、肺結核により27歳で死去した。長男アルフォンソ13世は父の死後に誕生し、胎児の性別が分かるまで王位は空位とされた。男子の誕生により、赤子が直ちに国王となり、王妃マリア・クリスティーナが摂政を務めた。
同じ年に亡くなった人物
- ティティアン・ピール (1885年没)
- ルイ・リエル (1885年没)
- エリーザベト・フォン・プロイセン (1815-1885) (1885年没)
- ルイ・ルロワ (1885年没)
- ウージェーヌ=エマニュエル・アモリー=デュヴァル (1885年没)
同じ地域に関係する人物
- トニー・レブランク (2012年没)
- エンリケ・ペレス・ディアス (2021年没)
- アルフレード・ランダ (2013年没)
- カルロス3世 (スペイン王) (1788年没)
- ヤコポ・アミゴーニ (1752年没)