伝記
ホルス・サー(ホルス・ザ)は、エジプトの第2王朝または第3王朝のころに在位したかもしれない、初期のファラオの可能性がある人物である。没年はおよそ紀元前2700年ごろとされる。その存在も、存在を裏づけるとされる遺物の意味も、議論の的になっている。
この名が知られるのは、黒インクの銘を記した容器の破片による。破片は、サッカラのジョセル王のピラミッドの地下東側の回廊で見つかった。銘は短く、筆記体で書かれている。どの例でも「ホルス・サー」の名はセレク(王名を囲む枠)の中にはなく、王のホルス名だという同定には異論がある。名はつねに「ホルス・サーのカーの家」という銘の中に現れ、その家に仕えた高官イニクヌムやマアアペルミンの名と並んで見つかることが多い。初期王朝時代のカーの家は、のちの葬祭神殿の前身で、亡くなった統治者のカーを祀る場所だった。同じ銘は1980年代に、サッカラのマヤの墓の付近、メレリ・メリネイトの墓のごく近くでも見つかった。二人は第18王朝後期の廷臣で、元の持ち主の死から約1500年後に、第2王朝の墓を再利用したのである。
正体については諸説がある。ユルゲン・フォン・ベッケラート、ディートリヒ・ヴィルドゥング、ペーター・カプロニーは、「サー」が王名サナクトの短縮形だと唱えた。ヴォルフガング・ヘルクは、東回廊のインク銘がおもにニネチェルの治世かその直後のもので、サナクトは第3王朝中期の王だとして退けた。さらに「ヘテプセケムウィのカーの家」の銘と様式が似ることから第2王朝とみて、ホルス名が不明のもう一人の王ウェネグの名ではないかと提案した。ヨッヘム・カールはウェネグをラーネブと同一視し、カプロニーはウェネグの名を「ウェネグセケムウィ」と復元したため、いずれもこの説とは合わない。カプロニーはホルス・サーを王「ウェルサクヌム」と同一視し、カセケムウィとジョセルの間の空位期に2か月23日在位したとしたが、カセケムウィの墓からジョセルの粘土封泥が出たことで、この説は弱まった。代わりに、ニネチェルの治世後の混乱期にメンフィスで統治したセネジなど、第2王朝の別の王の名かもしれないとされる。
ジャン=フィリップ・ローエル、ピエール・ラコー、イロナ・レグルスキは、銘の読みに慎重さを求める。カーの家の上の鳥の記号はツバメともとれ、その場合は「カーの家の大いなる守り」と読める。レグルスキはホルスの鳥という読みを好むが、王の名とまでは考えず、銘をカセケムウィの治世末の年代とみている。
墓は分かっていない。スウェリムは、サッカラ西部の未完成の囲壁ギスル・エル・ムディールと結びつけたが、広くは受け入れられず、この囲壁は第2王朝の諸王、とくにカセケムウィのものとされてきた。ファン・ウェテリングは、サッカラ北部でアテン神の大司祭メレリ・メリネイトが使った回廊墓が、もとはホルス・サーのものだったと提案した。近くで同じ銘が出たためである。