伝記
ジェセルは、エジプト第3王朝のファラオである。第2代とされ、在位は紀元前2668年から紀元前2649年と記される。一方で、第3王朝の創始者の有力な候補だとする見方もあり、先代がだれかは王名表の読み方によって揺れている。ギリシア語化した名はトソルトロスやセソルトスとも呼ばれる。同時代の碑文ではホルス名ネチェリケト、すなわち「神の肉体」の意で呼ばれており、ジェセルの名は後の時代に書かれたものである。ネチェリケトとジェセルが同一人物だと確かめられたのは、アスワンのセヘル島にある「飢饉の碑」の碑文による。第3王朝の日付をもつ部分にジェセルの名が刻まれていたのである。
出自には諸説がある。先代サナクトの弟とする説や、サナクトと、先々代カセケムイの娘ニマアトハピとの子とする説がある。いっぽう、カセケムイの墓から出た印章と、ベイト・ハッラーフのマスタバK1の印章が、ニマアトハピを「王の子らの母」「二重王の母」と記すことから、カセケムイの子だとする見方もある。印章の証拠からは、ジェセルがカセケムイを埋葬し、墓の造営を完成させた直接の後継者だったと考えられている。また、ニマアトハピのほかにヘテプヘルネブティが王妃として知られ、名の分かる娘はイネトカウエスだけである。後継者セケムケトとの関係や、没年は不明である。
王位の系譜をめぐっては、ラメセス朝期の王名表の多くがネブカという王を先代に挙げるが、この名を同時代のホルス名と結びつけるのは難しく、順序に疑問を呈する研究者もいる。ウェストカー・パピルスにおける王の並びからは、ネブカはジェセルとフニの間に置くべきだとも考えられる。さらに、トビー・ウィルキンソンは、アビドスのカセケムイの墓の入口で見つかった埋葬用の印章がジェセルの名だけを記すことを示し、ジェセルがカセケムイを葬って直接継いだという見方を支えた。アビドスとサッカラの墓から出た儀礼用の石の容器に、同じ神ミンの図像が見られることも、両王の結びつきを示すとされる。ドイツのエジプト学者ギュンター・ドライヤーは、ウム・エル・カアブにあるカセケムイの墓でもジェセルの印影を見つけており、これも直接の後継を裏づけるとされる。上下エジプトは、南北の内戦とみられる争いののち、紀元前2680年ごろにカセケムイによって一つの王国に再統一された。統一後は繁栄の時代で、第3王朝と古王国が始まった。王朝の創始者が誰かは、記録が断片的なため議論があり、ジェセルのほか、ネブカやサナクトも候補に挙がる。ネブカとサナクトが同一人物の可能性もある。ニマアトハピの祭祀は、のちのスネフェルの治世にも続いていたようである。
ジェセルの時代、エジプトはシナイ半島の鉱物資源から得た富で勢力を広げ、南のアスワン付近まで進出した。セヘル島の碑文は、この勢力拡大も示している。トート神の神官イムホテプを宰相に登用したジェセルは、ナイル川の渇水による飢饉の際にどうすべきかを尋ねた。イムホテプは、ナイル川の水源の主であるクヌムの神殿に土地を寄進すれば再び川は氾濫するであろう、と答えたという。
最もよく知られた業績は、サッカラに築かれた階段ピラミッドである。史上初のピラミッドともいわれ、エジプトで最初の巨大な石造建築とされる。カイロのエジプト博物館に収められた彩色石灰岩のジェセル像は、実物大としては知られる最古のエジプト像で、1924年から1925年の古物局の発掘で見つかった。出土地のサッカラには、現在は原品の代わりに石膏の複製が置かれている。治世の長さについて、ギリシア人の歴史家マネトは29年と伝えている。
同じ年に亡くなった人物
- セケムケト (紀元前 2700年(推定))
- Horus Sa (紀元前2700)
- イムホテプ (紀元前 2700年(推定))
- Hesy-Ra (紀元前2700)
- Hetephernebti (紀元前2700)
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