伝記
ヴィクトル・ユーゴーは、1802年2月26日にフランス東部のブザンソンで、ナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴーとソフィー・トレビュシェの三男として生まれた。父は共和派で、ユーゴー家はロレーヌの農民の出、母はナントの資産家の娘だった。生まれたときは小柄でひ弱だったといわれる。生粋のボナパルト主義者の父と根っからの王党派の母の間には政治思想の違いによる確執があり、その確執は後の『レ・ミゼラブル』のマリユスの父ポンメルシー大佐と祖父ジルノルマンの確執の原型になったという。母に連れられてヨーロッパ各地を転々とし、長い父の不在もあって、母への思慕が非常に強かった。1814年に兄とパリの寄宿学校に入り、最後の2年はリセ・ルイ=ル=グランにも通った。父は軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で、1816年7月10日の詩帳に「シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない」と書いた。
17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌も発行した。母は才能を認めながら、幼なじみで恋人のアデール・フシェとの結婚には猛反対したが、1821年6月に母が没すると、アデールの両親も彼の情熱に折れ、同年10月12日に結婚した。1822年に出した『オードと雑詠集』がルイ18世の目に留まって年金を受けるようになり、ロマン派の旗手として活躍を始めた。長男レオポールは1823年に生まれてすぐ亡くなり、翌年に長女レオポルディーヌが生まれた。1825年には23歳でレジオンドヌール勲章を受けている。1828年に父が死去した。1829年には『東方詩集』と『死刑囚最後の日』を刊行したが、戯曲『マリオン・ドロルム』は上演禁止となった。続く戯曲『エルナニ』は古典派の常識を逸脱したため、初日にロマン派と古典派のこぜりあいが暴動に転じた。いわゆる「エルナニ合戦」だが、公演は大成功を収め、ロマン派を世界文学の主流に据えるきっかけになった。
名声と富を得た一方、私生活には波があった。妻アデールがサント=ブーヴと恋に落ち、1833年には女優ジュリエット・ドルエの愛人になった。1836年にアカデミー・フランセーズに2度落選し、翌1837年には次兄ウジェーヌが入院先の精神病院で自殺した。同年、ルイ・フィリップの長男の結婚式に招かれたのをきっかけに、国王父子とも親交を深めた。1841年、3度の落選ののちにアカデミー・フランセーズの会員に当選した。1843年、長女レオポルディーヌが結婚してまもなく、夫とともにセーヌ川で溺死した。旅先でその知らせを受けた彼の心には大きな穴が開いた。それから約10年、作品を1冊も出版していないが、その間に『レ・ミゼラブル』(当時の題名は『レ・ミゼール』)の執筆を1845年11月17日に始めている。
同年、ルイ・フィリップから子爵の位を授けられ、貴族院でポーランドに関する演説を行うなど政治にも身を置いた。1848年の二月革命後は立憲議会の補欠選挙で当選し、死刑廃止や教育改革、社会福祉を主張した。共和派となり、同年12月の大統領選ではルイ・ナポレオンを支持したが、独裁化が進むと強力な反対者に回った。1851年12月2日のクーデターで反対派への弾圧が始まると、ユーゴーも対象となり、亡命生活を送った。その間に『静観詩集』や大作『レ・ミゼラブル』を完成させた。1885年5月22日に死去し、国葬をもって遇された。
同じ年に亡くなった人物
- フェルディナント・ヒラー (1885年没)
- カール・シュピッツヴェーク (1885年没)
- エマ (ハワイ王妃) (1885年没)
- ナルシス・ムントリオル (1885年没)
- ジョゼフ・アルフレッド・セレ (1885年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・オーギュスト・ブランキ (1881年没)
- アルマン・マルク (1792年没)
- エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵) (1788年没)
- ジャン=ベルトラン・ポンタリス (2013年没)
- ジィップ (1932年没)