伝記
ゴーム老王は、10世紀前半から半ばにかけてのデンマークの王である。ゴルム王、ゴーム・デン・ガムレとも呼ばれる。ユラン半島中部のイェリングを拠点に、ユラン半島からフュン島にかけてのデンマーク西部一帯を支配したとされ、ハーラル青歯王、スヴェン双髭王、クヌート大王と続くイェリング王権の開祖と位置づけられる。900年より前に生まれ、958年から959年の冬ごろに没したとみられるが、963年か964年とする説もある。「老王」の渾名は、老齢を人間に与えられた運命の限界まで引き延ばしたためとも、デンマーク王家の伝統的な始祖とみなされたためともいわれる。
出自ははっきりしない。11世紀の年代記者ブレーメンのアダムは、ノルマン人の国から来たスヴェンの息子ハルデゴン(ハーデクヌーズ)が、先にヘーゼビューを拠点としたオーラヴ家のシグトリュグから王国を奪ったと記しており、このハルデゴンをゴームまたはその父とする見方が一般的である。ただしその「ノルマン人の国」がノルウェーかノルマンディかは分からない。『ヘイムスクリングラ』は、ゴームが王国の少なくとも一部をグヌーパから力ずくで奪ったと伝える。ゴームの名は936年ごろ、ハンブルク大司教ウンニを迎えた人物として初めて現れる。ウンニは布教を試みたが、野蛮さがはなはだしく従えることができなかったという。この記述から、そのころには外部から交渉相手と認められる地位にあったと考えられる。
妻はチューラといい、出自は明らかでない。12世紀のサクソ・グラマティクスは彼女を「イングランドの王女」とするが、同時代の史料に出自を示すものはない。ゴームはイェリングに、チューラを記念するルーン石碑を建てた。「王ゴームは、デンマークの誉れであるその妻チューラを記念してこの碑を建立した」と刻まれたこの石碑は、世界遺産イェリング墳墓群の一部として残る。碑文の「デンマーク」は、近年「デーン人の辺境」と解釈され、チューラが東部の豪族の娘で、婚姻がゴームの権力基盤を固めたとする説もある。この権力基盤は、のちの息子ハーラルの治世の礎になったとされる。二人の間には、トケ、クヌーズ、ハーラルの三人の息子がいたと伝えられる。
サクソは次の逸話も伝える。ゴームは、腕から飛び立っては戻る二羽のハヤブサのうち、大きな方が戻らず、小さな方だけが翼を血に染めて戻る夢を見た。これを恐れ、愛していた息子クヌーズの死を知らせる者は殺すと言い渡した。のちにクヌーズがイングランドでの戦いで死ぬと、チューラは広間の壁に黒い布をかけ、従者にも黒服を着せてゴームを待った。そして王の上着を脱がせて喪服をかけたところ、王が「私にクヌーズの死を知らせるのはお前か」と尋ねた。チューラは「それを口にしたのはあなたであり、私ではありません」と答えたという。
イェリングの教会からは、ゴームの可能性がある遺骨が発掘された。推定身長は173センチメートル、年齢は30代から50代で、死因は分かっていない。北側墳丘の墓室の支え木が958年に伐採されたことから、没年は958年から959年の冬と推定される。一説では、ゴームははじめチューラの墳丘に葬られ、のちに息子ハーラルによって最初の教会に移されたとされるが、議論は続いている。ゴームの時代、デンマーク人の多くはまだ北欧の神々を信仰していた。デンマークが公式にキリスト教へ改宗したのは、息子ハーラルの時代である。ゴームの子孫には、現在のデンマーク王家とノルウェー王家がある。
同じ年に亡くなった人物
- ロターリオ2世 (イタリア王) (950年没)
- Chernorizets Hrabar (950年(推定))
- シェモムィスウ (950年没)
- Konstantinos Lekapenos (950年没)
- ハウエル・ザー (950年)
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