伝記
テオポンポスは、古代ギリシアの歴史家・弁論家で、イソクラテスの弟子である。生年は紀元前380年頃、あるいは378年または377年とされ、没年は正確には分かっていないが、研究者は紀元前320年頃と見る。紀元前315年頃とする記述もある。エーゲ海のキオス島に生まれた。
若い頃、父ダマシストラトスがスパルタに好意を寄せたとして追放されたため、父とともにアテナイで過ごした。そこでイソクラテスに学び、修辞学で急速に上達した。師のイソクラテスは、同じ弟子のエフォロスには拍車が必要だが、テオポンポスには轡が必要だと評したと伝えられる。祝典弁論を作る技にも熟達し、紀元前352年から351年にかけて、カリアのアルテミシア2世が亡き夫を称えて催した弁論の競技で賞を得た。このときイソクラテス自身も競争者に加わっていたという。歴史家の道に進むことを最終的に決めたのは、師の助言だったといわれる。豊かな家産と、人や土地についての広い知識も、歴史家として彼を恵まれた立場に置いた。紀元前333年頃、アレクサンドロス3世の影響力によってキオスへの帰還を許され、しばらくは故郷の貴族派の指導者の一人となった。しかしアレクサンドロスの死後、再び追放され、エジプトのプトレマイオスのもとに身を寄せた。そこでは冷遇されたらしい。
著作の中心は歴史で、後世の著作家に多く引用された。ヘロドトスの『歴史』の抜粋(真偽には議論がある)、『ヘレニカ』、『ピリッポス史』、いくつかの頌詞と勧告の演説があり、主なものは『アレクサンドロスへの書簡』である。この書簡の断片は、アテナイオスの引用で一つか二つ伝わり、ハルパロスの放縦を厳しく批判している。『ヘレニカ』は12巻でギリシア史を扱い、トゥキュディデスの記述が終わる紀元前411年から、紀元前394年のクニドスの海戦までを描いた。1907年までは断片しか知られていなかった。その後、グレンフェルとハントがオクシュリンコスで発見したパピルス断片が、この書の一部と認められたが、ブラスやベリーらはこれに反対し、紀元前395年の出来事を記した断片をクラティッポスの作とした。
最大の作品は、フィリッポス2世の治世(紀元前360年から336年)を扱った『ピリッポス史』で、58巻に及んだ。各地の民族や風習についての脱線が多く、マケドニア王フィリッポス5世はマケドニアに関係のない部分を削って16巻に縮めたという。この書はトログスが著作の材料を多く得た源であった。ポティオスの時代には53巻が残り、彼は第12巻の要約を残している。この書でテオポンポスはフィリッポスを単なる征服者としてではなく、治世が道徳的・社会的な荒廃をもたらした人物として描いた。宮廷の腐敗を論じる道徳的な評論でもあり、フィリッポスの泥酔と放縦を厳しく責める一方、デモステネスを熱心に称賛した。第10巻にはアテナイの政治家たちへの痛烈な攻撃を含む脱線があり、プルタルコスが伝記の中で自由に用いたと認められている。
芸術的な統一は、頻繁で長い脱線のために大きく損なわれた。諸民族や個人の性格への批評や逸話の断片は、アテナイオスやプルタルコスらが保存している。荒唐無稽な物語を好む欠点があり、その一部を集めた書が彼の名で後に出されたほどである。また辛辣すぎる批評も古代から非難された。それでも全体としては、かなり公平だったとみられる。アリストテレスは『政治学』で、奴隷制の不当さに関するテオポンポスの見解に触れている。
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