伝記
アガペトゥス2世は、第129代ローマ教皇で、在位は946年5月10日から955年11月8日である。生年ははっきりせず、ローマで905年に生まれたともいわれる。教皇マリヌス2世の死を受けて946年5月10日に選ばれた。ローマは当時、マロツィアの子でローマの支配者であったアルベリーコ2世の独立した共和国のような状態にあり、アガペトゥスはその推挙を受けた人物であった。この時代は「暗黒の世紀」と呼ばれる。慎重で、聖なる生活を送る人物として知られ、10年にわたり賢明に治めたとされる。
アルベリーコがローマの世俗権力を握っていたため、教皇はローマと教皇領での世俗的な権限を行使できず、教皇権は霊的な活動に限られていた。その中で教会内部の運営に力を注ぎ、修道院改革と聖職者の規律確立に努めて、低下していた教皇の権威の回復を図った。クリュニー修道院の改革運動を推進し、北欧への宣教も積極的に支援した。イタリアの王位をめぐってベレンガーリオ2世とオットー1世が争うと、アルベリーコはローマと教皇への支配をいっそう強めた。イタリアの混乱を収めるため、教皇はオットー1世に支援を求めたが、この招きも951年にベレンガーリオの伸長を懸念したアルベリーコの意向によるものであった。オットーの使節であるマインツ司教とクール司教は、ローマでの迎え入れなどを話し合うために教皇のもとに送られたが、アルベリーコに追い返された。ローマ皇帝の冠を求めるオットー1世の要請は、教皇が拒否した。
教皇はランス司教座をめぐる争いにも介入せざるをえなかった。948年6月にインゲルハイムで教会会議を開かせ、対立するヴェルマンドワのユーグとアルトーの権利を裁かせた。教皇は特使ボマルツォのマリヌスを派遣し、多くの司教に出席を求める書簡を送った。特使を通じて、フランス王ルイ4世への支持と、アルトーのランス司教への復位への賛成を示した。続いてトリーアでも会議が開かれ、949年には教皇自身がローマで教会会議を開いて、二つの会議の決定を追認し、前司教ユーグを断罪し、その父であるヴェルマンドワ伯エルベール2世を、ルイ4世への敵対を理由に破門した。947年から949年にかけても、それぞれ教会会議が催されている。
またルイ4世とオットー1世の求めに応じて、それぞれの王国の修道院や女子修道院に特権を与えた。948年ごろにはハンブルク大司教に、教皇に代わって北欧諸国の司教を叙階する権利を与えた。ザルツブルク大司教とラウリアクム司教が、パンノニア全域の大司教の座を争うと、双方が正当にその座を占めていると裁定し、西部はザルツブルク、東部はラウリアクムの管轄とした。イタリアでは、ベネヴェント公とカプア公に、追い出した修道士へ修道院を返すよう求め、聖職売買の疑いのあったテルモリとトリヴェントの司教を罷免した。また、城壁外の聖パウロ教会の修道共同体を再興するため、ゴルツェ修道院に修道士の派遣を求めている。
955年11月8日に没し、遺体はラテラノ大聖堂の後陣の裏に葬られた。後継は、アルベリーコの息子オクタヴィアヌスで、ヨハネス12世を名乗った。没年を956年8月とする説もあるが、没日の記録とは一致しない。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ1世 (バイエルン公) (955年没)
- コンラート (ロートリンゲン公) (955年没)
- サトゥク・ボグラ・ハン (955年没)
- ファリチ (955年)
- エドレッド (955年没)
同じ地域に関係する人物
- エドゥアルド・フランシスコ・ピロニオ (1998年没)
- パスカリス1世 (ローマ教皇) (824年没)
- Fiorenzo Bava-Beccaris (1924年没)
- マウリツィオ・アリーナ (1979年没)
- グレゴリウス13世 (ローマ教皇) (1585年没)