HISTORICAL PERSON · 955年没

コンラート (ロートリンゲン公)

ロートリンゲン大公。オットー1世の娘婿となったが義兄の反乱に加担し公位を失い、後に和解しレヒフェルトの戦いで戦死した。

生涯
955年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / レヒフェルト)
出生地
—
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

コンラート(922年頃-955年8月10日)は、ロートリンゲン大公(在位944年-953年)で、ヴォルムスガウ伯(在位941年-955年)も務めた人物である。「赤公」あるいは「赤毛公」とも呼ばれた人物である。のちにドイツ王・神聖ローマ皇帝となるコンラート2世の曽祖父にあたり、ザーリアー朝の始祖とされる。

父はザーリアー家のヴォルムスガウ伯ヴェルナー5世で、935年ごろに没した。母はドイツ王コンラート1世の娘ヒキナとされてきたが、シュヴァーベン公ブルヒャルト2世の娘とみる見方もある。ヴェルナー5世は、ライン上流のナーエガウ、シュパイヤーガウ、ヴォルムスガウに所領を持つフランケンの伯であった。941年、コンラートは父の跡を継いでライン地方の諸伯領を受け継ぎ、ライン右岸のヴェッテラウにも領地を得た。ヴォルムスに居を構え、マインツ大司教フリードリヒとライン・フランケンでの優位を争った。939年にはフランケン公エーベルハルトがアンダーナッハの戦いで戦死しており、その後コンラートは、国王オットー1世に忠実な支持者としてフランケンの代理を務めたという。西フランク王ルイ4世にロートリンゲンを放棄させることにも力を貸し、王の弟ハインリヒがオットーの命を狙う陰謀を暴く手柄も立てた。こうして944年、まだ若いコンラートはロートリンゲン大公に任じられた。ただし土地の貴族には受け入れられず、王の支えに頼らざるをえなかった。

947年、オットー1世は最初の妃エドギタとの間の娘リウトガルトをコンラートに嫁がせ、連携を強めた。二人の間には、948年ごろに生まれた息子オットーがいる。のちにケルンテン大公となった人物である。951年、オットー1世の最初のイタリア遠征にコンラートは同行し、イタリア王ベレンガーリオ2世との交渉を取り仕切った。ベレンガーリオ父子は952年のアウクスブルク帝国会議で臣従を誓い、イタリア王位を追認された。ところがオットー1世の弟であるバイエルン大公ハインリヒ1世が横槍を入れ、ヴェローナ辺境伯領の割譲まで迫ったため、コンラートは面目をつぶされた。

翌953年、コンラートは、妻の同母兄で、父の再婚やベレンガーリオへの処遇に不満を抱いていたシュヴァーベン大公リウドルフに同調し、ともにオットー1世に叛旗を翻した。反乱は広がったが、ハンガリー人の侵入に対処する中で鎮圧された。コンラートはフリッツラーの帝国会議で大公位を剥奪され、ロートリンゲンは、オットーとハインリヒの弟であるケルン大司教ブルーノに与えられた。リウトガルトは同年に世を去った。954年6月、コンラートはオットー1世と和解し、所領は保ったが、大公位は戻らなかった。同年にはマルクグラフ・ゲロによるスラヴ系ウクラニ族への遠征に加わった。

955年、ハンガリー人がバイエルンに侵攻すると、コンラートは第四軍のフランケン軍団を率いて戦った。8月10日のレヒフェルトの戦いで、戦場でも際立って勇敢に善戦したものの、自身は戦死した。コルヴァイのヴィドゥキントによれば、猛暑に疲れて息をつこうと鎧の紐を緩めたところ、矢が喉を貫き、即死したという。オットー1世はその死を悼み、遺体をヴォルムスに運ばせて丁重に葬らせた。ヴォルムス大聖堂で息子で後継者のオットーによって盛大な葬儀が営まれたが、このような葬儀は当時、司教や王だけの特権であったという。

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