伝記
マッシリアのピュテアスは、紀元前4世紀に、ギリシア人の植民都市マッシリア(現在のマルセイユ)に生きた地理学者・探検家である。紀元前325年ごろ、北西ヨーロッパへの冒険航海に出て、グレートブリテン島の各地を訪れた。白夜や極冠、ゲルマン人について最初の記録を残した人物とされ、フィン諸語の話者らしい民族についての最初の記録も残した。遠いトゥーレの伝説を地理的な想像力に持ち込み、潮汐の原因が月であることを最初に述べたとも伝えられる。生涯の細部は分からず、伝わるのは航海の断片的な報告に限られる。
航海の時期を絞る手がかりは乏しい。大プリニウスは、紀元前350年ごろ生まれた歴史家ティマイオスが、ピュテアスが琥珀を発見したという話を信じていたと伝える。ストラボンは、紀元前285年ごろに亡くなったディカイアルコスが、ピュテアスの話を信じなかったと伝える。ティマイオスが何かを書き残せるのは20歳、つまり紀元前330年以降で、ディカイアルコスが後世に残る作品を書いたのは紀元前300年以降と考えられるため、トーザーは、航海がその間になされたと推定した。ティマイオスにあと5年が必要だとして、早くとも紀元前325年以降とする見方もある。
ピュテアスの航海記は現存せず、ストラボンの『地理誌』、大プリニウスの『博物誌』、シケリアのディオドロスの『歴史叢書』など、後の作家の引用や抄録から知られるだけである。天文学者ゲミノスはその書名を「海洋についてのこと」、日本語では『大洋』と記し、ロドスのアポロニオスの注釈は『地球周回の旅』や『航海』とも呼ぶ。19世紀には、これらを別々の航海の書と考えたが、現在は、航海記の一種ペリプルスとして、『大洋』1作のみだとする見解が主流である。地中海の航海者でブリテン諸島に着いたのは彼が最初ではなく、紀元前6世紀のペリプルスには、アルビオンを経て「聖なる島」アイルランドへ行った簡単な記述がある。当時ジブラルタル海峡を握ったカルタゴが他国の船を通さなかったため、19世紀末までの歴史家は、彼が河口まで陸路で行ったなどと推測したが、根拠はない。20世紀には、マッシリアがカルタゴと友好的な関係にあり、海を自由に行き来できたとの説が出た。
航海の最初は、ストラボンがエラトステネスの記述を参照して概説している。ピュテアスは「聖なる岬」で潮汐が終わると述べ、これは現在のポルトガル南西端の岬を指すらしく、そこからカディスまで帆走で5日かかるとした。ストラボンは、彼が「ブリテンの行ける所をすべて旅した」と述べたと記し、周囲を4万スタディア以上と伝えるが、この人物を快く思っていなかったようだ。ディオドロスも似た値を挙げ、ブリテン島を三角形とみて周囲を測ったのだろう。探検家ナンセンは、この空想的な値をティマイオスの換算の誤りとし、ピュテアスは航海の日数しか記さず、天文データの収集のため停船が多かったと考えた。ポリュビオスは徒歩で一周したとの説を疑い、ストラボンは嘘だと断じた。ブリテンという名は、ストラボンによれば、彼が女性名詞の形で呼んだものである。ただし写本には最初の文字がBでなくPになっているものもあり、彼が聞き取った名は、元来Pで始まる形だった可能性が高いとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ファルナバゾス (提督) (紀元前 310年(推定))
- クセノクラテス (紀元前310年代没)
- アイスキネス (紀元前310年代没)
同じ地域に関係する人物
- ベルナール・チュルーヤン (2019年没)
- マクシム・ロダンソン (2004年没)
- Ignace Heinrich (2003年没)
- モーリス・ジーグ (2011年没)
- ノロドム・ラナリット (2021年没)