伝記
アイスキネスは、紀元前390年ごろに生まれ、紀元前315年ごろに没したとされる古代アテナイの弁論家・政治家で、アッティカ十大雄弁家の一人に数えられる。マケドニアの脅威を訴えたデモステネスの宿敵として知られ、彼とは対照的に親マケドニアの政策を説いた。二人の対立は民会から法廷にまで及び、その弁論は当時のアテナイの内政と外交の実情を伝える貴重な史料となっている。
生まれは貧しい家で、アテナイのコトコス区に暮らし、父は学校の教師のアトロメトス、母は外国の神に仕える巫女グラウコテアだったとされる。二人の兄弟デモカレスとアポボスがいた。頑健な体と大きな声に恵まれ、体操に励み、その声から劇場へ進んで、進行を促す役から俳優になったという。父の学校で読み書きを教え、書記も務めたが、そのころに弁論家への志が芽生えたのかもしれない。リュシアスに弁論と弁護の技術を、プラトンに哲学を学んだとされる。兵士としても優れ、マンティネイアでテーバイ軍と戦った際には二度も表彰され、エウボイア島のタミュナイの戦いにも加わった。
政治の表舞台に現れたのは紀元前348年ごろ、ピリッポス2世によるオリュントス陥落の後である。彼はポリスが大同団結してマケドニアに当たることを唱え、使節としてアルカディアへ赴いたが失敗し、落胆して立場を変え、ピリッポスとの和平を求めるようになる。平和派の指導者エウブロスに近づいた。紀元前346年には、エウブロスやピロクラテスらとマケドニアへ和平交渉の使節として赴き、まもなくデモステネス側のティマルコスから、買収と王への加担で告発された。そこで『ティマルコス弾劾』を書いて無罪となる。紀元前343年にはデモステネスが『使節について』で再び攻め、これに『偽りの使節について』で応じ、ぎりぎりで無罪となった。紀元前339年にはデルポイの隣保同盟に派遣される代表に選ばれ、アンピッサへの怒りから同盟を説得し、同市が聖なるクリサの平野を耕したとして罰させ、聖戦の一つを引き起こした。カイロネイアの戦いの後には、デマデスとともに和平の条件を交渉した。
最後の対決は、クテシフォンがデモステネスに黄金の冠を与えようと提案したことをきっかけに始まる。アイスキネスは、デモステネスが職務の決算審査を受けていないことや、授与の場が慣例と違うことを理由に、提案を違法として起訴し、『クテシフォン弾劾』を語った。これに対しデモステネスが弁護した『冠について』の弁論は、クテシフォンを無罪にし、アイスキネスを辱めた。この裁判の年は紀元前330年とされ、紀元前336年とする資料もある。彼は5分の1の票も得られず、誣告者として罰金を科され、以後の告発を禁じられて、エフェソスへ退き、のちロドス島で弁論術の学校を開いた。75歳で世を去り、宿敵デモステネスより長く生きたとされる。
弁論の腕はデモステネスに次ぐと評され、迫力や激しさには欠けたが、即興に優れ、古典的な修辞の規則を守り、構成に長けていた。『クテシフォン弾劾』にはデモステネスの比喩をまねて、おかしな像を並べて皮肉る一節もあった。それでも彼は、デモステネスの弁論の優位を認め、晩年には聞き手に感嘆して語ったという。現存するのは『ティマルコス弾劾』『偽りの使節について』『クテシフォン弾劾』の三つの弁論だけである。
同じ年に亡くなった人物
- ピュテアス (紀元前310年没)
- ファルナバゾス (提督) (紀元前 310年(推定))
- クセノクラテス (紀元前310年代没)
同じ地域に関係する人物
- Agatharchus (紀元前460)
- エラシストラトス (紀元前248)
- ヒュペルボロス (紀元前410)
- ナムク・ケマル (1888年没)
- Metrodorus of Chios (紀元前400)