伝記
コンスタンティノス7世は、マケドニア朝の東ローマ皇帝で、913年から959年11月9日まで在位した。「ポルフュロゲネトス(緋色の間の生まれ)」というあだ名で知られる。905年5月17日または18日にコンスタンティノポリスで生まれ、父は皇帝レオーン6世、母はその四番目の妻ゾエ・カルボノプシナ(「黒い瞳」の意)である。英語版によれば、教会法に反する四度目の結婚の前に生まれた庶子であり、母は嫡出と認めさせる助けとして、宮殿の緋色の産室で彼を産んだ。この産室は緋紫色の石壁に覆われ、皇帝の嫡出子が生まれる場所とされていた。父の死後に叔父のアレクサンドロスが帝位に就いたが、在位は一年ほどで終わった。
913年6月、幼いコンスタンティノスが即位した。総主教ニコラオス1世ミュスティコスを長とする摂政団が国政を担ったが、混乱が続いた。帝国軍最高司令官コンスタンティノス・ドゥーカスが帝位を狙って殺され、ブルガリアのシメオン1世が貢納金の停止を理由に侵攻して、8月には首都に迫った。東ローマは譲歩を強いられ、シメオンを「ブルガリア皇帝」として戴冠させ、皇帝とシメオンの娘を婚約させて和議を結んだ。この不人気な譲歩を受けて、母ゾエが摂政団を退け、権力を握った。しかしゾエは戴冠を取り消して戦いを続け、917年から918年にブルガリアに敗れて権威を失った。919年3月、海軍司令長官ロマノス・レカペノスが宮殿を押さえ、ゾエは修道院に退けられた。ロマノスは娘のヘレネをコンスタンティノスに嫁がせて義父となり、実権を握った。
920年、ロマノスは皇帝(英語版では共同皇帝)の座に上り、その長男クリストフォロスが第二位の共同皇帝となった。コンスタンティノスは正統な嫡男でありながら第三位に落とされ、以後、読書と学術研究に没頭した。英語版は、若いころの彼を、風采が冴えず、口数が少なく、宮廷儀礼の研究に打ち込む聡明な青年と描く。944年、ロマノス1世はコンスタンティノスを後継者に指名したが、これにロマノスの息子たちが反発し、12月にクーデターで父をマルマラ海の島へ追放した。だが二人はコンスタンティノスを追放しようとして、民衆の支持を得ていた彼に逆に逮捕され、追放された。こうして945年1月27日、コンスタンティノスは英語版によれば39歳で、ようやく単独の皇帝となった。数か月後の復活祭には、息子のロマノス2世を共同皇帝に立てた。しかし自身は学問を好み、政務の多くを官僚や将軍、そして精力的な妻ヘレネに任せたという。
その治世に、学者が宮廷に集められて古代ギリシア文化の研究が進み、百科事典的な『抜粋』や農業書が編纂された。彼自身も『バシレイオス1世伝』『テマについて』や、息子ロマノス2世のための著作を残した。947年には、農民の土地を無償で返還させる命令を出したという。949年に、クレタ島のアラブ海賊に対して百隻の艦隊を送ったが失敗した。東方では、958年にニケフォロス・フォカスが北シリアのアダタを、翌年にヨハネス・ツィミスケスが北メソポタミアのサモサタを奪った。後ウマイヤ朝、神聖ローマ帝国、キエフ大公国などとも使節を交わした。959年11月9日に病死し、首都の多くの市民がその死を悼んだといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- エドウィ (959年没)
- ピエトロ・カンディアーノ3世 (959年)
- ムハンマド・ナールシャーヒー (959年)
- 柴栄 (959年没)
同じ地域に関係する人物
- ニケフォロス2世フォカス (969年没)
- アフメト1世 (1617年没)
- チャヒット・アルフ (1997年没)
- ティベリオス3世 (706年没)
- サーディー・ウルマク (1990年没)