HISTORICAL PERSON · 959年没

柴栄

五代後周の第2代皇帝で、郭威の養子。禁軍として殿前軍を編成して皇帝権力を強め、廃仏令や銅貨鋳造を行い、南唐や契丹を攻めて領土を広げたが、39歳で没した。五代随一の名君とされる。

生涯
959年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 開封市)
出生地
中華人民共和国(邢台市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

柴栄は、五代十国時代の後周の第2代皇帝で、廟号は世宗である。五代随一の名君とされ、後周の全盛期を築いたが、若くして亡くなった。921年に邢州(現在の河北省邢台市)で生まれ、959年に世を去った。

実父は柴守礼(字は克譲)で、その妹が後周の太祖となる郭威の妻柴氏である。柴栄は幼いころから叔母の嫁ぎ先の郭威の家で養われ、後晋末には郭威の養子となった。郭威に子がなかったため、物静かな甥を我が子として迎えたのだという。馬上の弓に長じた頑健な青年に育ち、経書や史書、黄老の思想にも一通りの理解があった。成人してからは郭威の家政を預かり、商いのために中原と江南を往来することもあった。郭威が後漢の枢密使、ついで天雄軍節度使となると、柴栄もその下で天雄軍牙軍の総指揮官となった。後漢の隠帝が郭威の一族を殺害し、郭威が反乱を起こして開封へ向かった際には、柴栄は根拠地の魏州の防衛を任された。このとき開封にいた柴栄の妻子も殺されている。郭威が皇帝に即位して周を建てると、柴栄は澶州の節度使となり、地方の無法者を一掃し、法の執行を整えて人々の支持を得た。953年には晋王に封じられた。

954年に郭威が没すると、柴栄が後継者に指名され、後周の第2代皇帝として即位した。即位の機に乗じ、北漢が契丹の援軍を得て侵攻してきた。両軍は沢州高平の巴公原で激突し、序盤には自軍の一部が北漢に降って窮地に陥った。しかし柴栄は自ら矢石の飛び交う中で督戦し、将軍趙匡胤の奮戦もあって北漢軍を打ち破り、さらに北漢の都である太原を包囲した。北漢を滅ぼすには至らず、途中で退却した。節度使は軍事・行政・財政の三権を兼ねて軍閥化しやすく、五代を通じて戦乱の大きな原因となっていた。禁軍の侍衛司も、歴代の皇帝が優遇しすぎたために恩賞がなければ戦わない驕兵となっていた。柴栄は新たに殿前軍を編成し、節度使の配下から優秀な兵士を引き抜いて組み入れ、その指揮権を皇帝のみが持つようにした。これにより節度使は弱まり、禁軍と皇帝権力は強化された。また廃仏令を出して仏教勢力の力を削いだ。その目的は、税や兵役を逃れる出家と寺院への資産流出の防止、仏教勢力からの権益の獲得といった、経済・国家統制上のものであった。増えた税収と没収財産は軍の再編成の費用に充てられた。銅の不足に対しては銅の私有を禁じ、銅製の仏像も没収して銅貨に鋳直した。租税の軽減や農村の復興にも努め、「大周刑統」という国法を定めた。

こうして力を蓄えた柴栄は、唐の滅亡以来の統一を目指した。955年にまず後蜀を攻めて秦州など4州を奪い、同年冬からは十国で最強の南唐を攻めた。南唐の抵抗は激しく戦いは3年ほど続いたが、958年に君主の李璟が降伏した。和睦の条件として、長江以北の領土の割譲や、皇帝号を廃して「国主」と名乗ることが取り決められた。割譲された淮河から長江に至る地域には中国最大級の塩の産地があり、南唐は以後、自国の塩を賄えず、後周から毎年30万石の援助を受けるようになった。次に柴栄は北の契丹と北漢に向かい、959年には燕雲十六州のうち南寄りの3州3関を奪った。さらに北上して幽州に入ったところで陣中に病を得て、開封へ引き返したがまもなく没した。享年39。

跡を継いだのは、わずか7歳の息子の柴宗訓であった。まもなく軍内に実力者を擁立する動きが起こり、柴栄に最も信頼された殿前都点検の趙匡胤が推戴を受け、柴宗訓から禅譲されて北宋を建てた。前王朝の皇帝が殺されるのが通例の時代にあって、柴宗訓は手厚く保護され、柴氏は南宋の滅亡までの約320年、勅命によって優遇された。

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