伝記
リンゲルハイムのマティルデは、東フランク王ハインリヒ1世の妻で、のちの神聖ローマ皇帝オットー1世の母である。895年頃にヴェストファーレンで生まれ、968年3月14日にクヴェードリンブルクで没した。英語ではマティルダとも書かれる。カトリック教会の聖人で、記念日は3月14日である。
その生涯は、コルヴァイのヴィドゥキントの『サクソン人の事跡』にある短い記述と、作者不明の二つの聖人伝に基づいて知られる。聖人伝は、974年頃に成立した『ヴィタ・アンティクィオール(古い伝記)』と、1003年頃の『ヴィタ・ポステリオール(新しい伝記)』である。マティルデはヴェストファーレン伯ディートリヒと、妻ラインヒルト・フォン・フリースラントの娘で、伝記作家らによれば、その家系は9世紀のサクソン人の英雄ヴィドゥキントに遡る。祖母が院長を務めるヘルフォルトの女子修道院に預けられ、そこで育てられた。その美しさと徳性はザクセン公オットーの耳に達し、オットーは息子ハインリヒとマティルデを婚約させたという。また、狩りの後にヘルフォルトの修道院を訪れたハインリヒが、その美しさと善良さに心を打たれて求婚したとも伝えられる。2人は909年に結婚し、息子3人と娘2人をもうけた。子には、のちの皇帝オットー1世、バイエルン公ハインリヒ1世、ケルン大司教ブルーノがおり、娘のゲルベルガはロートリンゲン公ギゼルベルトの妻となり、その死別後に西フランク王ルイ4世の妻となった。もう一人の娘ヘートヴィヒは、西フランク公ユーグ大公の妻となった。918年にハインリヒがフランク人の王に選ばれると、マティルデは王妃となった。
王妃のマティルデは、祈祷と貧者への施しに熱心なことで知られた。夜中に熟睡した夫の傍らを離れ、教会へ祈りに忍び出たと最初の伝記は述べるが、この記述は、フランク王クロタール1世の妃ラデグンドの伝記に相当に依拠している。戦いのさなかには病人や負傷者を見舞い、囚人を助け、貧しい人や借金に苦しむ人に金銭を与えたとされ、王宮に助けを求めて来た者は誰でも手当てを受けたという。王もその判断を信頼したと伝わる。
936年に夫が死去すると、マティルデは息子オットーの宮廷にとどまった。しかし、王位継承をめぐる問題では、長男オットーではなく次男ハインリヒに肩入れしたようである。さらに、自分の慈善事業のために王の財産を流用していると、王の側近らに告発されたと伝えられる。そののちヴェストファーレンのエンガーの修道院に流されたが、オットーの最初の妻でアングロサクソンの王女であるエドギタのとりなしにより、宮廷へ戻ったという。別の伝えでは、オットーが母を宮殿から退け、母は相続分を息子たちに譲って去った。ところがその後まもなく次男ハインリヒが病に倒れ、国にも問題が生じ始めた。やがて息子たちは母の慈悲深さを認めて許しを請い、母は宮廷に戻って慈善と寄進を自由に続けたという。母のとりなしもあって、オットーが反乱を起こした弟ハインリヒを許し、バイエルン公に任じたとも伝わる。
マティルデは多くの宗教的施設を建てた。なかでもクヴェードリンブルクの修道院は、聖俗の両面でオットー朝の中心地となった。ノルトハウゼンの修道院でも、彼女の伝記の少なくとも一つが著されたと思われる。長い病ののち968年に没し、夫ハインリヒとともにクヴェードリンブルクの修道院に葬られた。死後まもなく聖人として崇敬されるようになり、列聖された。
同じ年に亡くなった人物
- ムッタキー (968年没)
- Abu Firas al-Hamdani (968年)
- アブル=ミスク・カーフル (968年)
- ムマドナ・ディアス (968年)
- ロスヴィータ (968年)
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