HISTORICAL PERSON · 968年没

ムッタキー

アッバース朝カリフ。実権を重臣に握られる中、南部豪族の反乱でバグダートを追われ、944年には捕らえられて目を潰され退位、以後25年を島の牢獄で過ごした。

生涯
968年没
死亡地
イラク共和国(バグダード県 / バグダード)
出生地
イラク共和国(バグダード)
出典
世界地図
イラク共和国(バグダード県)

伝記

ムッタキーは、アッバース朝の第21代カリフ(在位940年〜944年)である。908年に生まれ、968年に没した。本名はイブラーヒーム・ブン・ジャアファルで、第18代カリフのムクタディルと、女奴隷のズフラ(ハルーブとも)との間に生まれた。母はギリシア人であったという。青い目と赤い髪、とても白く澄んだ肌をした、目を引く容姿の持ち主であった。

幼い頃から不運で、事故が次々と起こり、周囲の人間が死ぬことが多かったと伝えられる。成長すると真面目一方の人柄で、酒を飲まず、女に溺れなかった。禁欲的な生活を送って断食に打ち込み、自分が望む唯一の友はコーランだけだと述べたことで知られる。

この頃のカリフの地位はすでに軽く、先のカリフ・ラーディーが死去すると、大アミールのバージカムは書記官をバグダードに送るにとどまり、その書記官が有力者を集めて後継者を選ばせた。選ばれたのはラーディーの弟のムッタキーで、数日の空位ののちに即位した。34歳であったとされる。最初の仕事は、バージカムに旗と栄誉の衣を贈ることだったが、それはもはや必要のない追認にすぎなかった。バージカムはクルド人の盗賊団に殺され、首都は再び無秩序に陥り、権力者たちの争いが絶えなかったという。ムッタキーは政治の実権を重臣に握られた、有名無実の君主であった。7月3日には、力のないカリフ・ムッタキーによってクランキジが大アミールに任じられたが、その同じ夜に、トルコ人のタキナクが捕えられて溺死させられた。クランキジは宰相の顔ぶれを次々に替え、数日のうちに人事を改めた。やがて、かつて大アミールだったイブン・ライークがシリアからバグダードへ迫った。ムッタキーはその帰還を促す手紙を送っていたという。9月22日にイブン・ライークは生き残ったダイラム人を処刑し、翌日には大アミールに引き上げられ、クランキジは捕えられて宮殿に幽閉された。その後、宰相バリーディーとの和解と対立が繰り返され、バリーディーが送った軍に、イブン・ライークは敗れたのである。

942年、バグダードはひどい飢饉に襲われ、食糧の価格が暴騰して市民は苦しんだ。3月7日にはディヤーラー川の近くでイブン・ライークが敗れ、ムッタキーとともにハムダーン家の本拠モスルへ逃れた。街は内戦で荒れ、飢饉と疫病も重なって、多くの人が街を去った。モスルでムッタキーはハムダーン家に迎えられたが、彼らは自分たちの利益のため、イブン・ライークを暗殺し、そのシリアの統治権を手に入れてバグダードをうかがった。ハサンとアリーの兄弟のうち、ハサンは大アミールに任じられ、兄弟に守られたムッタキーはバグダードに帰った。ただし、ハムダーン家は外国人傭兵やトルコ人部隊が支配する都を治めるのは難しいと知り、一年足らずでモスルへ戻らざるをえなかった。

943年には、トルコ系武人のトゥーズーンがバグダードに入ってハムダーン家を追い払い、大アミールの称号を得た。まもなくムッタキーはトゥーズーンと不仲になり、ハムダーン家を頼って北方へ逃れた。しかし944年に捕えられて目を潰され、バグダードに連行されて退位させられ、次のカリフに忠誠を誓わされた。その後は小さな島の牢獄で、25年間もつらい生活を送ったという。968年に没した。ムッタキーの治世は、のちのアッバース朝(940年〜1258年)の始まりを画したとされる。

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