伝記
オリガは、キーウ大公国の第2代大公イーゴリ1世の妃である。夫の死後に息子の摂政としてキーウ・ルーシを治め、のちにキリスト教の洗礼を受けた。洗礼名はヘレナ。ルーシで最初期にキリスト教へ改宗した一人で、もっとも早い時期に聖人とされた一人でもあり、亜使徒の称号を持つ。命日は969年7月11日とされ、この日が祝日になっている。
プスコフの出身とされ、生年は890年から925年の間と推定されるが、はっきりしない。『原初年代記』は879年生まれとするが、息子を産んだのがその65年後になってしまうため、この年代は受け入れがたいとされる。平民の娘であったとも貴族の娘であったともいわれる。903年頃にイーゴリと結婚したとする記述もあるが、結婚時に15歳を超えていなかったとする研究者の見解もある。945年、ドレヴリャーネ族に貢納を強いに向かったイーゴリが殺害されると、当時3歳だった息子スヴャトスラフ1世の摂政としてキーウを治めた(945年頃〜963年頃)。
夫を殺したドレヴリャーネ族への復讐は、歴史的な脚色があるとされるものの、徹底したものとして伝えられる。彼らは自分たちの王子との結婚を求めてきたが、オリガは使者を船に乗せたまま運ばせて大穴に投げ込み、生き埋めにした。次に有力者を送るよう求めて、到着した者を入浴させたうえで浴室に閉じ込めて焼き殺した。夫の埋葬地の近くで追悼の宴を開かせ、酔いつぶれた約5000人を斬殺したともいう。最後に本拠イスコルステニを1年以上包囲し、各家から鳩と雀を差し出させ、硫黄を結びつけて放って町を燃やして征服したとされる。これによってドレヴリャーネ族の自立性は否定された。
その一方で、税制を整えた。それまでは大公の巡回徴貢と地方の諸族に頼っていた徴税を、大公直轄の貢税所を置き、自ら任命した徴税人を配置する形に改め、諸族の支配地の行政区化を進めた。これは「オリガの改革」と呼ばれる。
伝承では945年または957年にコンスタンティノポリスで改宗した。東ローマ皇帝コンスタンティノス7世は、自著『儀式の書』にオリガを迎える儀式を記録している。洗礼名は皇后ヘレナ・レカペナにちなみ、随員もみな洗礼を受けた。スラヴの年代記は皇帝との恋愛めいた話を載せるが、彼女は相当な高齢で皇帝も妻帯していたため、史実性は疑わしい。洗礼には、東ローマの援助と文化を移植できる人材を得るという政治的な動機があったと考えられている。959年にはオットー1世に使者を送り、司教らの派遣を求めたと西方の記録は伝えるが、ルーシの年代記には見えず、これは年代記の成立期にはルーシがすでに正教会側の立場を確定していたためとされる。メルゼブルクのティートマールは、アダルベルトがキーウの司教に任じられたが、異教徒に追放されたと記している。
息子が成人すると、オリガは政治の表舞台を離れたが、息子の遠征中は孫たちとともにキーウを治め、ペチェネグ人に包囲されたキーウで病没したとも伝えられるが、その年には異説がある。息子にも洗礼を勧めたが断られた。ルーシ全体の大規模な改宗は、彼女の薫陶を受けた孫のウラジーミル1世の時代に行われた。
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