伝記
ミハイロ・クレシミル2世(ミヒャエル・クレシミル2世)は、949年から969年に没するまでクロアチア王を務めた人物で、「大王」と呼ばれる。トルピミロヴィチ家の一員で、クレシミル1世の子であり、945年に王位にあった兄ミロスラヴの弟にあたる。
即位の経緯は、有力なバン(総督)プリビナの動きと結びついている。プリビナは、自分の管轄が一部の地域から制限されたことを理由に、先王ミロスラヴに対して反乱を起こし、クレシミルを王位に就けたとされる。内戦はミロスラヴが949年に死んで終わり、ミハイロの治世が始まった。この治世では王国の栄光が回復されたという。フランス語圏の記述では、ミロスラヴは兄弟間の内戦の末に殺され、ミハイロが跡を継いでクロアチアの秩序を立て直したと整理されている。
13世紀末の半ば伝説的な年代記『ドゥクリャの司祭の年代記』には、白クロアチアのクレシミルと呼ばれる人物が、ボスニアのウスコプリェ、ルカ、プリヴァの各ジュパを荒らし、最終的にボスニア全域を征服したと記されている。これは通常クレシミル2世に当てられる。ボスニアのバンは抵抗できないと悟ってハンガリーへ逃れ、ミハイロが完全な支配を確立し、その子ステパン(実際にはステパン・ドルジスラヴ)が跡を継いでクロアチアとボスニアを治めたという。ただし、この記述には時代錯誤が含まれ、ナダ・クライッチ、トミスラヴ・ラウカル、ネヴェン・ブダクらの歴史家は「歴史的な核」はあるものの、なお疑わしいとみている。968年に現地の部族を鎮めて領土を完全に服属させたとする説明もある。また、歴史家ルドルフ・ホルヴァトは、ミハイロが969年にイタリア半島のガルガーノ付近でアラブの海賊を破ったと述べている。
ミハイロと、ザダル出身の妻ヘレナは、ダルマチアの都市と良好な関係にあった。ミハイロはそれらの都市を支配していた可能性もあるとされる。また、ディクロの領地をザダルの聖クリゾゴヌス修道院に寄進したと、1066年または1067年のペタル・クレシミル4世の勅許状に記されている。ヘレナはソリン(古代のサロナ)に王家の霊廟を建て、19世紀末にそこで「王妃」の称号を刻んだ墓碑銘が見つかった。ヘレナは夫より7年長く生きたとされる。ミハイロは没するまで王位にあり、子のステパン・ドルジスラヴが後を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- 穆宗 (遼) (969年没)
- オリガ (キエフ大公妃) (969年没)
- ニケフォロス2世フォカス (969年没)
- ナースィル・アッダウラ (969年)
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