伝記
ルイーザ・メイ・オルコットは、1832年11月29日、現在のペンシルベニア州フィラデルフィアの一部で生まれた、アメリカの小説家である。『若草物語』(1868年)の著者として最もよく知られる。父は超絶主義者で教育者のエイモス・ブロンソン・オルコット、母はニューイングランドの由緒ある家柄の出身で、愛称をアッバというアビゲイル・メイ・オルコットといい、ルイーザは四人姉妹の次女だった。一家は1844年にボストンへ移り、父はそこで実験的な学校を設立した。父は理想主義的な哲学を実践する教育者だったが、家族に対して超然とし、生活力がなく、経済的に家庭を守っていたのは母だった。一家は父の挑戦と挫折に従い、生活苦から転居を繰り返して、三十年間で二十二回に及んだ。ルイーザは経済的にも精神的にも不安定な境遇で育ち、生活力のない父に代わって家族を支えるという強い決意と義務感を生涯抱いた。
父ブロンソンはコネチカット州の農家に八人きょうだいの長男として生まれ、教育はさほど受けなかったが、『天路歴程』に決定的な影響を受けた。農業や時計製造などの仕事を経て、教師を志し、十九歳でバージニア州へ向かったが、職は見つからず、行商人として五年間を過ごした。のちに進歩的な教育法が注目を集め、感銘を受けた牧師がボストンの幼児学校にポストを用意し、牧師の妹だったアッバと出会った。メイ家は慈善活動と奴隷制廃止運動に熱心なことで知られており、メイ家の面々は、家族を養う考えのほとんどないブロンソンとの結婚を危ぶんだが、アッバが押し切って1830年に結婚した。ブロンソンはボストンで、エマーソンやソローとともに超絶クラブを創設した。エマーソンは彼を常に支持し、オルコット家が金に困ると経済的支援を行った。
ルイーザは若い頃から家計のために働きながら、執筆の仕事を試み続け、1860年代に作家として成功を収めた。早い段階では、A・M・バーナードなどのペンネームで、スリラー短編や情熱と復讐に焦点を当てた大衆向けの扇情小説を書いていた。この事実は二十世紀半ばまでほとんど知られていなかったが、現在では、素朴で真実味のある小説から「血と雷の物語」と呼んだぞっとするような物語まで、多彩な作風の小説家だったことが分かっている。三十冊以上の本と三百篇を超える作品を残した。
1868年に発表された『若草物語』第一部は、南北戦争時代のアメリカ北部に暮らす四人姉妹、長女メグ、次女ジョー、三女ベス、四女エイミーの一年間を描いた物語である。マサチューセッツ州コンコードにあるオルコットの家、オーチャード・ハウスを舞台にし、彼女の三人の姉妹との子ども時代の経験に基づいている。第二部は翌1869年に出て、若くして死去するベスを除く姉妹のその後を描いた。当時から好評で、百五十年以上にわたり愛され続けており、舞台、映画、テレビで何度も映像化されている。
作家として成功したオルコットは一家の稼ぎ頭となり、『若草物語』の印税で家の借金を返し、両親の面倒をみた。夫を亡くした姉アンナの家族を支え、妹メイのヨーロッパ絵画留学の費用を捻出し、メイ亡き後は残された姪を引き取って育てた。一家は奴隷制廃止運動に関わり、母は女性の権利の活動家で、娘たちに自活の大切さを教えた。オルコットも奴隷制廃止論者でフェミニストであり、禁酒運動や女性参政権などの改革運動に積極的に取り組み、生涯独身で通した。女性の権利と教育改革は、小説の主要なテーマだった。彼女は、父の死の二日後、1888年3月6日にボストンで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ペンバートン (1888年没)
- フィリップ・ヘンリー・ゴス (1888年没)
- マリー・アマーリエ・フォン・バーデン (1888年没)
- クリストファー・メミンジャー (1888年没)
- ミハイル・ロリス=メリコフ (1888年没)
同じ地域に関係する人物
- ラルフ・バートン・ペリー (1957年没)
- ジェームズ・コノリー (陸上選手) (1957年没)
- アビゲイル・アダムズ (1818年没)
- トーマス・ウェントワース・ヒギンソン (1911年没)
- フレッド・ホイップル (2004年没)