伝記
ウィリアム・ウィルキー・コリンズは、1824年1月8日にロンドンで、高名な風景画家ウィリアム・コリンズとその妻ハリエットの長男として生まれたイギリスの小説家であり、推理作家、劇作家である。父と同名だが、名付け親の画家デイヴィッド・ウィルキーにちなむミドルネームで呼ばれるようになった。弟のチャールズ・オールストンも生まれ、兄弟は幼いころ、母から家庭で初等の教育を受けた。一家は深く信仰的で、母は息子たちに教会への出席を厳しく強いたが、ウィルキーはそれを嫌った。1835年に学校に通い始め、1836年から1838年は両親とともにイタリアとフランスで暮らし、強い印象を受けた。イタリア語を覚え、フランス語も学び始めて、のちには流暢に話した。1838年から1840年は寄宿学校に通ったが、いじめに遭い、ある少年に毎晩物語を聞かせるよう強いられたことが、語る力に気づくきっかけになったと後に語っている。
1840年の末、17歳近くで学校を離れ、父の友人が経営する紅茶商の会社に見習いの事務員として入り、嫌いな事務仕事を5年以上続けた。1843年に最初の短編を雑誌に発表し、1844年にはパリへ旅した。この年、最初の長編小説を書いたが、出版社に断られ、生前は世に出なかった。父は息子を牧師にしたいと考えており、ウィルキーが画家にも牧師にもならないと知って失望した。父の主張で1846年に法曹院に入り、法律を学んだが、友人たちと過ごし、2作目の小説『アントニア』の執筆に時間を費やした。1847年に父が亡くなると、父の回想録を書き、これが1848年に出版された最初の本になった。その後、父の宗教的な几帳面さや保守的な考えに反対し、文筆家として生きることを志した。一時は画家を目指したこともあり、1849年には王立美術院の夏の展覧会に絵を出品した。『アントニア』は1850年に出版され、本格的に作家としての道を歩み始めた。1851年に法廷弁護士の資格を得たが、実務にはつかず、法律の知識を多くの小説に生かした。
1851年3月、友人の画家を通じてチャールズ・ディケンズに紹介された。二人は生涯の友人となり、共同制作者ともなった。コリンズは、ディケンズが出版する雑誌『暮らしの言葉』などに定期的に寄稿し、旅行も共にしている。1860年の『白衣の女』は記録的な大ヒットとなり、書店には購入を求める人々が列をなし、時の蔵相グラッドストーンがその続きを読みたいために、知人とのオペラ鑑賞をすっぽかしたほどだった。さらに1868年の『月長石』は最初期の長編推理小説として名高く、T・S・エリオットから「最初の最大にして最良の推理小説」と評された。
生涯結婚はせず、結婚制度を批判した。キャロライン・グレーブスという女性とは家を建てて同居し、その連れ子を育てた。また、マーサ・ルッドとの間にも子があり、その私生児たちを援助して、当時の社交界からは追放された。晩年は関節炎の鎮痛剤として服用した阿片に耽溺し、ドッペルゲンガーなどのさまざまな幻覚に悩まされた。その幻覚で見た奇妙な人物は晩年の作品にも登場している。時流にも取り残されて不遇のうちに、1889年9月23日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ・グスタフ・ライヘンバッハ (1889年没)
- アウグステ・フォン・ヘッセン=カッセル (1889年没)
- ダミアン神父 (1889年没)
- 森有礼 (1889年没)
- ジュール・バルベー・ドールヴィイ (1889年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジョージ・ショー (1813年没)
- ロベール・カンベール (1677年没)
- ウィリアム・エドワード・エアトン (1908年没)
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