伝記
ハカム2世は、915年1月に生まれ、976年に没した後ウマイヤ朝の第2代カリフである。在位は961年から976年まで。初代カリフ・アブド・アッラフマーン3世の子で、コルドバに生まれた。誕生日は1月13日とも20日ともいわれ、七か月で生まれたと伝えられる。
幼いころから後継者として育てられた。8歳で父の後継者に指名され、教育は行き届いたものだったという。父は跡継ぎの教育を気にかけ、彼を宮殿で自分のそばに住まわせ、妻を迎えないようにさせたとされ、そのために様々な噂が立った。成長してからは政務に深く関わり、軍事遠征にも何度か父に同行した。即位前には父を補佐し、父が建造していたザフラー宮殿の造営にも力を尽くした。一生を通じて芸術と文学を愛した人物である。
961年に父が没すると、47歳でカリフの座に就き、「アル・ムスタンシル・ビッラー」(アッラーの勝利の助けを求める者)という称号を名乗った。それまで、妻ラディヤとの間に子はなかった。即位後は世継ぎが必要になり、バスク系の出身とされる奴隷の側室スブフが子を産み、彼はその子にジャアファルという男性名を与えた。政治は父の路線を引き継ぎ、治世の15年間はおおむね穏やかで、コルドバの大モスクも拡張された。父の時代の繁栄を保っただけでなく、その最盛期をもたらしたと評される。政務では、スラヴ系の解放奴隷で将軍のガーリブと、侍従長ジャアファル・ムスハフィーを頼りにした。ガーリブは北の国境の防衛を担い、のちに軍の最高司令官となった。ムスハフィーは師傅の子で友人でもあり、誠実さから厚い信頼を得て、カリフの最後の病の間は政務を執った。
対外関係では、即位してまもなくレオン王国に対し、先王サンチョ1世が父に約束した十の城塞の引き渡しを求めた。サンチョ1世はこれを拒んだが、カリフが廃位されていたオルドーニョ4世を宮廷に迎えて復位を約束すると、約束を守ると言い出した。ところが962年にオルドーニョ4世がコルドバで没すると態度を変え、ナバラ王、カスティーリャ伯、バルセロナ伯と同盟してカリフに対抗した。963年にカリフが攻勢に出て、サン・エステバン・デ・ゴルマス、アティエンサ、カラオラを占領し、後ウマイヤ朝の優位が回復した。965年にサンチョ1世が毒殺されて幼いラミロ3世が即位すると、レオンは混乱し、レオンの諸侯のほか、新たなカスティーリャ伯ガルシア・フェルナンデスやナバラ王サンチョ・ガルセスも、960年代末から次の十年の初めにかけて争うように臣従の礼をとった。ゴルマスは対カスティーリャの防衛拠点として強化された。973年には将軍に軍を預けてマグリブへ遠征し、ファーティマ朝の領土を奪ったとされる。その隙を突いて、カスティーリャ伯ガルシア・フェルナンデスがレオン、ナバラと結び、975年にゴルマスを包囲した。アフリカから戻ったガーリブが、同年6月のゴルマスやランガなどの戦いで彼らを破った。この時期は後ウマイヤ朝の全盛期とされる。
彼は東方へ使者を送って貴重な書物を集めさせ、蔵書は40万巻から60万巻近くに及び、目録だけで44巻に達したと言われる。巨大な図書館を創設し、自ら蔵書に注釈を書き込むほど熱心だった。そのため、政務は宰相に任せがちだったともいう。976年、61歳で死去した。没日は10月1日とも16日ともいわれる。胴長短足で肥満体だったとも伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- Helen of Zadar (976年)
- ピエトロ・カンディアーノ4世 (976年)
- テオファノ (976年)
- ヨハネス1世ツィミスケス (976年没)
- ルクン・ウッダウラ (976年)
同じ地域に関係する人物
- フアン・マヌエル (1349年没)
- メロバウデス (500年没)
- コルドバのペラギウス (926年没)
- ワッラーダ (1091年没)
- マスラマ・ビン・アフマド・アル=マジリーティー (1007年没)