HISTORICAL PERSON · 1349年没

フアン・マヌエル

カスティーリャの王族・摂政、散文作家。寓話集『ルカノール伯爵』を著し、後の欧州文学の翻案の原型となった。

生涯
1349年没
死亡地
スペイン王国(コルドバ県 / コルドバ)
出生地
スペイン王国(castillo-palacio de Escalona)
出典
世界地図
スペイン王国(コルドバ県)

伝記

ドン・フアン・マヌエルは、1282年5月5日、現在のトレド県にあたるエスカローナ城で生まれたカスティーリャの王族である。父マヌエルはフェルナンド3世の末子でアルフォンソ10世の弟にあたり、母ベアトリスはサヴォイア伯アメデーオ4世の娘であった。父は1283年に、母は1290年に亡くなり、8歳で孤児となった彼は、国王サンチョ4世の後見を受けて育った。父からはビリェーナとエスカローナの所領と名剣ロベラを受け継いだ。ペニャフィエルはサンチョ4世が誕生に際して与えたものであった。12歳でムルシアの領主となり、グラナダ勢のムルシア攻撃を退ける戦いにも加わった。

騎士の訓練のほか、ラテン語、歴史、法、神学も学んだ。伯父アルフォンソ10世は学芸を庇護して豊かな蔵書を残しており、幼い頃からそれらに親しんだことが作家となる契機になった。1299年にマヨルカ王ハイメ2世の娘イサベルと結婚したが、彼女は2年で世を去った。サンチョ4世の死後、幼いフェルナンド4世の母で摂政の王妃マリア・デ・モリナを守るという約束を破り、アラゴン王ハイメ2世との同盟を求め、1303年にその娘コンスタンサとの結婚を申し入れた。当時6歳の彼女はビリェーナ城で暮らし、1311年に12歳になって彼と結婚した。彼はフェルナンド4世とアルフォンソ11世の筆頭侍従を務め、アンダルシアとムルシアの辺境総督も務めた。

1312年にフェルナンド4世が没すると、アルフォンソ11世の成人まで摂政を務めたが、実態は王の母コンスタンサ、祖母マリア、王の叔父ペドロ、大叔父フアンに彼を加えた5人の後見人による集団指導であった。ところが1313年にコンスタンサが死去し、1319年にグラナダ王国を攻めたペドロとフアンが戦死、1321年にはマリアも世を去って、摂政の座をめぐる争いが起こった。ペドロの弟、フアンの同名の息子である隻眼のフアン、そしてフアン・マヌエルの3人が争い、カスティーリャは荒廃した。1325年にアルフォンソ11世が親政を始めると、危機感を抱いた彼は隻眼のフアンに近づき、長女コンスタンサ・マヌエルを嫁がせる話を進めた。しかし王が彼女を王妃に迎えたいと申し出ると、彼は隻眼のフアンを見捨て娘を王に嫁がせた。だが王は1326年に隻眼のフアンを暗殺し、翌1327年にコンスタンサ・マヌエルと離婚して、ポルトガル王アフォンソ4世の娘で従妹のマリアを妃に選んだ。

王と不和になった彼は、義父のアラゴン王ハイメ2世の助けを得て反旗を翻し、グラナダにも支援を求める手紙を送り、数年にわたる内乱となった。だが手紙は王の手に渡って支援は得られず、アラゴンも新王アルフォンソ4世がアルフォンソ11世の姉レオノールと再婚してカスティーリャと和睦したため、彼は孤立した。1329年、統治を助けてほしいと頭を下げた王と和解して帰国した。1330年の著作『国家論』では、レコンキスタはイスラム教徒に奪われた土地を取り戻すための戦いであり、宗教の違いによって戦うのではないと明言し、宗教的熱狂とは一線を画した。1335年には51話を収めた寓話集『ルカノール伯爵』を著し、この作品によってスペインの散文は大きく飛躍した。1344年にはアルヘシラス占領に加わった。

1348年6月13日、コルドバで没した。生涯に14の著作があったといわれ、晩年に全作品の写本をペニャフィエルの修道院に保管させたが、現存は7本のみである。『ルカノール伯爵』の第32話はアンデルセンの『裸の王様』の、第35話はシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』の原著として知られる。

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