伝記
景宗は、高麗の第5代王(在位975年~981年)である。955年11月9日に生まれ、981年8月13日に没した。姓は王、光宗と大穆皇后皇甫氏の長男で、のちの穆宗の父にあたる。祖父は高麗を建てた太祖であり、父方からも母方からも太祖の孫にあたる人物であった。父の光宗は925年の生まれで、母の大穆皇后も925年の生まれとされる。出生地は松嶽とされる。
生まれた年のうちに太子に冊立された。弟に孝和太子がいたが幼いうちに亡くなったため、王位継承の候補は景宗ただ一人だったという。父の光宗の代には豪族に対する大規模な粛清が行われ、景宗自身も父から疑いの目を向けられて、関係はよくなかったと伝えられる。975年に光宗が没すると、19歳で王位に就いた。
即位すると、景宗は父が迫害した人々を赦し、その官位まで回復させた。しかし、豪族たちはこれを機に、かつて自分たちを讒言した者たちへ復讐を始めたとされる。朝廷は殺伐とした空気に包まれ、景宗はそれに嫌気が差したとも伝わる。『高麗史』によれば、景宗は政治や王族との交わりを避け、庶民と遊び興じ、酒色にふけり、囲碁を打って過ごしたという。音楽にも耽り、政務をおろそかにしたとも語られる。
その一方で、景宗の代の事績として知られるのが田柴科の制定である。976年に定められたとされるこの制度は、高麗の官僚制の経済的基盤をつくった。全土は国家に属するという考えに基づき、国庫に直接租税が納められる公田と、国家に功績のあった者が恩恵を受ける私田の二つに土地を分け、官人にも農民にも土地を配分する仕組みだった。農民は割り当てられた土地を耕して国に税を納め、当人が亡くなれば土地は国に戻された。この法は父の改革を土台とし、国家の財政を安定させたとされる。のちの高麗の土地に関する法の源になった制度ともいわれる。また、宋との友好関係を改善したとも伝わる。ただし、治世についてよく分かっていることは多くない。
景宗には複数の妃があった。新羅の敬順王の娘である献粛王后金氏、文元大王の娘である献懿王后劉氏には子がなかった。献哀王后皇甫氏(964年~1029年)は、太祖の子で戴宗と呼ばれる王旭の長女で、980年7月5日に長男の王訟を産んだ。これがのちの穆宗で、1009年に没するまで第7代の王を務めた。その妹の献貞王后皇甫氏(?~992年)にも子はなく、景宗の没後、王郁(安宗)との間に顕宗をもうけたと伝わる。さらに大明宮夫人がいたが、この夫人にも子はなかった。妃たちはいずれも景宗の従兄弟の関係にあたる。景宗は若くして病のため没した。長男の王訟はまだ乳児であったため、景宗は遺言で従弟の王治(成宗)を後継者に指名した。墓所は分かっていない。諡号は至仁成穆明恵順熙靖孝恭懿献和大王とされる。後世には、2009年のKBSのドラマ『千秋太后』にも登場している。
同じ年に亡くなった人物
- アヴラブ・クアラン (981年没)
- ヴァイセンブルクのアーダルベルト (981年没)
- Pandulf Ironhead (981年)
- Luitgarde of Vermandois (981年)