HISTORICAL PERSON · 1890年没

ウィレム3世 (オランダ王)

第3代オランダ国王・ルクセンブルク大公。1849年に父の死去で即位し、権威を振るおうとしたが父王の時代に王権が制限されていたため嫌われた。彼を最後にオランダとルクセンブルクの同君連合は解消された。

生涯
1890年没
死亡地
オランダ(ヘルダーラント州 / ヘット・ロー宮殿)
出生地
ベルギー王国(Palace of the Nation)
出典
世界地図
オランダ(ヘルダーラント州)

伝記

ウィレム3世は、1817年2月17日に、当時オランダ王国の一都市だったブリュッセルで生まれた、第3代オランダ国王、ルクセンブルク大公である。父は王太子のちのウィレム2世、母はロシア皇帝パーヴェル1世の娘アンナ・パヴロヴナで、その長男であった。ブリュッセルの住民は一家に宮殿を贈り、1828年に家族はそこへ移った。2年後にベルギー革命が起き、ベルギーの独立が宣言されると、父はアントワープの革命派の鎮圧を命じたのち、国王である祖父のもとへ引き下がった。ウィレムは13歳であった。弟のアレクサンデルとともに育てられ、父は地理の授業を自ら教えるなど、教育に関心を持った。ただ、両親は温和で素朴だった弟を好み、統治の術を兄より多く教えたという。

のちに兄弟はライデン大学に送られたが、どちらも学業への適性はあまり見せなかった。1836年、ライデンからの帰りに嵐に遭い、二人は馬車を降りて徒歩で帰ろうとして、森を通っている最中に木が倒れ、弟は下敷きになった。生き延びたものの、健康は回復せず、29歳で未婚のまま亡くなった。1838年には、一歳年下の従妹で、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世とカタリーナ・パウローナの次女ゾフィーと出会った。父親同士が結婚を考え、ウィレムは彼女に惹かれた一方、ゾフィーの側は乗り気ではなかった。母アンナもロシア正教の立場から近親婚に反対していた。それでも、結婚は翌年にシュトゥットガルトで行われた。夫妻には三人の王子が生まれた。

1840年に祖父が愛人の女性と結婚するために退位し、父がウィレム2世として即位し、1849年に父が亡くなると、32歳のウィレムが王位を継いだ。オランダ王はインドネシアなどに植民地を持つ国の君主で、ルクセンブルク大公を兼ね、リンブルク公国が1866年にオランダに編入されるまではリンブルク公でもあった。彼は王としての権威を振るおうとしたが、父王の時代に王権を制限する改正がなされていたため、国民から嫌われた。保守的な彼は、自由主義的で気性の激しい知識人であったゾフィーと反目し、夫婦の不和は世間に知られ、時には暴力的にもなった。治世の初めには次男マウリッツが病気になり、王妃は宮廷以外の医師を呼ぶことを求めたが、ウィレムは拒み、王子は7歳で夭折した。夫妻は1855年に別居し、1877年6月3日に王妃と死別した。

1855年には、江戸幕府に蒸気外輪船スームビングを贈った。6つの砲門を持つ軍艦である。日蘭修好通商条約の開市開港の延期を求めて、幕府は1862年に文久遣欧使節を派遣した。1879年1月7日、親子ほど歳の離れたエンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモントと再婚した。しかし同年6月に、長男のオラニエ公ウィレム・ニコラスが放蕩の果てに39歳で死去した。1880年8月31日に王女ウィルヘルミナが誕生したが、1884年6月には三男のオラニエ公アレクサンダーも33歳で亡くなり、王子3人は全員が後嗣なく没した。1890年11月23日に崩御し、王位はウィルヘルミナが継ぎ、エンマが摂政となった。ルクセンブルク大公位はサリカ法によりアドルフが継承し、両国の同君連合は解消された。

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