伝記
ウィレム3世は、1817年2月17日に、当時オランダ王国の一都市だったブリュッセルで生まれた、第3代オランダ国王、ルクセンブルク大公である。父は王太子のちのウィレム2世、母はロシア皇帝パーヴェル1世の娘アンナ・パヴロヴナで、その長男であった。ブリュッセルの住民は一家に宮殿を贈り、1828年に家族はそこへ移った。2年後にベルギー革命が起き、ベルギーの独立が宣言されると、父はアントワープの革命派の鎮圧を命じたのち、国王である祖父のもとへ引き下がった。ウィレムは13歳であった。弟のアレクサンデルとともに育てられ、父は地理の授業を自ら教えるなど、教育に関心を持った。ただ、両親は温和で素朴だった弟を好み、統治の術を兄より多く教えたという。
のちに兄弟はライデン大学に送られたが、どちらも学業への適性はあまり見せなかった。1836年、ライデンからの帰りに嵐に遭い、二人は馬車を降りて徒歩で帰ろうとして、森を通っている最中に木が倒れ、弟は下敷きになった。生き延びたものの、健康は回復せず、29歳で未婚のまま亡くなった。1838年には、一歳年下の従妹で、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世とカタリーナ・パウローナの次女ゾフィーと出会った。父親同士が結婚を考え、ウィレムは彼女に惹かれた一方、ゾフィーの側は乗り気ではなかった。母アンナもロシア正教の立場から近親婚に反対していた。それでも、結婚は翌年にシュトゥットガルトで行われた。夫妻には三人の王子が生まれた。
1840年に祖父が愛人の女性と結婚するために退位し、父がウィレム2世として即位し、1849年に父が亡くなると、32歳のウィレムが王位を継いだ。オランダ王はインドネシアなどに植民地を持つ国の君主で、ルクセンブルク大公を兼ね、リンブルク公国が1866年にオランダに編入されるまではリンブルク公でもあった。彼は王としての権威を振るおうとしたが、父王の時代に王権を制限する改正がなされていたため、国民から嫌われた。保守的な彼は、自由主義的で気性の激しい知識人であったゾフィーと反目し、夫婦の不和は世間に知られ、時には暴力的にもなった。治世の初めには次男マウリッツが病気になり、王妃は宮廷以外の医師を呼ぶことを求めたが、ウィレムは拒み、王子は7歳で夭折した。夫妻は1855年に別居し、1877年6月3日に王妃と死別した。
1855年には、江戸幕府に蒸気外輪船スームビングを贈った。6つの砲門を持つ軍艦である。日蘭修好通商条約の開市開港の延期を求めて、幕府は1862年に文久遣欧使節を派遣した。1879年1月7日、親子ほど歳の離れたエンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモントと再婚した。しかし同年6月に、長男のオラニエ公ウィレム・ニコラスが放蕩の果てに39歳で死去した。1880年8月31日に王女ウィルヘルミナが誕生したが、1884年6月には三男のオラニエ公アレクサンダーも33歳で亡くなり、王子3人は全員が後嗣なく没した。1890年11月23日に崩御し、王位はウィルヘルミナが継ぎ、エンマが摂政となった。ルクセンブルク大公位はサリカ法によりアドルフが継承し、両国の同君連合は解消された。
同じ年に亡くなった人物
- ヘレーネ・イン・バイエルン (1890年没)
- エドウィン・チャドウィック (1890年没)
- ジョージ・クルック (1890年没)
- セザール・フランク (1890年没)
- カール・レーヴィヒ (1890年没)
同じ地域に関係する人物
- ユーゴー・ド・フリース (1935年没)
- カレル・ファン・エフモント (1438年没)
- ジェイコブ・デ・ケンペナール (1870年没)
- ユスティヌス・ファン・デル・ブルッヘン (1863年没)
- ゾフィー・ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1642年没)