伝記
ユーゴー・マリー・ド・フリースは、1848年2月16日にオランダのハールレムで生まれた植物学者・遺伝学者である。父ヘリット・ド・フリースは弁護士でメノー派教会の執事を務め、のちにオランダの首相(1872年-1874年)となった人物で、ユーゴーはその長男だった。1862年に父が国務院の一員になると、一家はハーグへ移った。幼いころから植物に強い関心を示し、ハールレムとハーグのギムナジウムに通う間に、押し葉標本の出来栄えでいくつもの賞を受けた。1866年にライデン大学に入り、植物学を専攻した。スリンガルの授業と野外見学に熱心に参加したが、より強く惹かれたのは、ユリウス・フォン・ザクスの『植物学教本』(1868年)が説く実験植物学だった。ダーウィンの進化論にも深く感銘を受け、教授を挑発するようにダーウィンの言葉を引きながら、熱が植物の根に及ぼす影響についての論文を書いて、1870年に卒業した。
短い教員生活のあと、1870年9月にハイデルベルク大学で化学と物理学を学び、ヴィルヘルム・ホーフマイスターの研究室で働いた。次の学期にはヴュルツブルクのザクスの研究室に入り、植物の成長を研究した。1871年から1875年までアムステルダムの学校で植物学・動物学・地質学を教え、休みのたびにハイデルベルクの研究室に戻った。ザクスのもとでの研究は、膨圧、呼吸、成長、原形質分離といった植物生理学に貢献し、「原形質分離」という言葉を作ったのもド・フリースである。この研究はファント・ホッフの浸透圧の研究にも影響を与えた。1877年に新設のアムステルダム大学の植物生理学の講師となり、1878年に准教授、1881年に教授になり、1885年から1918年までは同大学の植物学研究所と植物園の所長も務めた。
1889年には『細胞内パンゲネシス』を出版し、ダーウィンのパンゲネシス説を修正して、遺伝を決定する細胞内の要素を「パンゲン」と名づけた。この理論を確かめるため、1890年代に複数の植物の品種を交配する実験を重ね、第二世代の表現型の比が3対1になることを説明した。1900年に34年前のメンデルの論文を知り、自身の論文を発表した。当初メンデルに言及しなかったが、カール・コレンスの批判を受けて、メンデルの先取権を認めた。こうして、コレンスやチェルマクとともに、メンデルの法則の再発見者とされる。
微小な変異が蓄積して新種が生じるというダーウィンの説に懐疑的だったド・フリースは、1886年からアムステルダム近郊でオオマツヨイグサの栽培実験を始めた。そして、いくつかの変異株が常に同一形質の子を生ずることに気づき、これを「突然変異」と名づけた。進化はこのような突然変異による新種に自然選択が働いて起こると考え、1901年から『突然変異論』として出版した。後年の研究では、観察された変異の多くが染色体レベルの変化によるものと説明され、突然変異説そのものは20世紀前半のうちに主流の座を失った。それでも、不連続な遺伝変異を進化学の中心問題とした点で、遺伝学史の重要な転換点とされる。1905年に王立協会の外国人会員に選ばれ、1918年に大学を退官した。1929年にリンネ・メダルを受け、1935年5月21日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
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- ミカエル・ピューピン (1935年没)
- アルバン・ベルク (1935年没)
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同じ地域に関係する人物
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