HISTORICAL PERSON · 1890年没

ジョン・ヘンリー・ニューマン

イングランド国教会の司祭からカトリックに改宗して枢機卿となった神学者。オックスフォード運動に関わり、のちに聖人と認定された。

生涯
1890年没
死亡地
イギリス連邦(バーミンガム / エジバストン)
出生地
イギリス連邦(ロンドン)
出典
世界地図
イギリス連邦(バーミンガム)

伝記

ジョン・ヘンリー・ニューマンは、1801年2月21日にロンドンで生まれ、1890年8月11日にバーミンガムで没した19世紀イングランドの神学者である。イングランド国教会の司祭からカトリックに改宗し、最終的に枢機卿となった。神学者、学者、哲学者、歴史家、作家、詩人でもあった。6人きょうだいの最年長で、父ジョン・ニューマンは銀行家、母ジェマイマ・フルドリニエはユグノーの家系の出であった。7歳で、イーリングの私立学校に入り、勤勉で行儀がよいと評価された一方で、内気で、学校の遊びには加わらず、孤立していた。のちには自分を「とても迷信深かった」と語っている。聖書を読むことを好み、ウォルター・スコットの小説も愛読した。

オックスフォードの大学人として国教会の司祭を務め、福音主義的な学者であったが、やがて高教会派の伝統に惹かれた。当時のオックスフォード大学では宗教をめぐる激しい論争が繰り広げられており(オックスフォード運動)、フランス革命の影響を受けた啓蒙思想に保守派は反発していて、ニューマンもその一人だった。彼の基本的な主張は、イングランド国教会が初代教会以来の使徒的伝統を継承し、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の中道を歩む唯一の真正な教会だというものだった。カトリックは中世以降の迷信や腐敗、過度な教皇絶対主義により、古代教会以来の権威を継承する資格を失ったと考え、プロテスタント諸派も使徒的継承性を放棄したと考えた。当時の国教会が国家の言いなりに陥っていることを批判して、運動を展開した。『時代のための小冊子』(1833年-1841年)や『教会の預言者的職務について』(1837年)、『教区および平易な説教』(1834年-1843年)などを著し、教会の教義上の権威を強調して、初期五世紀の「公同の」教会を手本とする国教会の改革を促した。

キリスト単性論などの神学研究を進めるうちに、カトリック教会に惹かれるようになった。1841年に、物議をかもした小冊子第90番を発表した後、国教会に属することについては、「臨終の床にあった」と書いている。1845年にオックスフォード大学の職を辞し、数人の追随者とともに国教会を正式に離れてカトリック教会に加わり、まもなく司祭に叙された。同年に『キリスト教教義の発展についての試論』を著している。1854年には、のちにダブリンのユニバーシティ・カレッジとなるアイルランド・カトリック大学の創設に決定的な役割を果たし、『大学の理念』を著した。聖公会では信徒の役割が重視されていたのに対し、カトリックでは信徒の地位が低く教育も乏しいことに愕然として、「教会は聖職者と信徒との共同体である」との信念から、教育のある信徒の重要性を説いた。この考えは第2バチカン公会議の理念の先駆ともいえるが、当時は多くの非難・批判にあった。第1バチカン公会議では、教皇不可謬説を全面的に擁護した。

1865年に『ゲロンティアスの夢』を書き、これをテクストとして、エドワード・エルガーが1900年にオラトリオを作曲した。1866年には自伝『わが生涯の弁明』を著している。1879年に教皇レオ13世から、イングランドのカトリック教会への貢献により枢機卿に叙された。1991年に尊者に認定され、2010年9月、教皇ベネディクト16世の英国公式訪問の際に列福された。2019年10月13日に列聖され、2025年11月1日に教皇レオ14世によって教会博士と宣言された。

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