伝記
アパマ2世(アパメ2世とも)は、紀元前292年ごろに生まれ、紀元前249年より後のいつか亡くなったとされるセレウコス朝の王女で、キュレネ王マガスとの結婚によってキュレナイカの王妃となった人物である。父はセレウコス朝の第2代の王アンティオコス1世ソテル、母は王妃ストラトニケである。兄弟姉妹には、マケドニアのストラトニケや、セレウコス朝の王アンティオコス2世テオスがいる。父方の祖父母は初代の王セレウコス1世ニカトルと王妃アパマ1世、母方の祖父母はマケドニア王デメトリオス1世と王妃ピラであり、名は父方の祖母と叔母にちなむ。アパマはセレウコス朝の領内で生まれ育った。
紀元前275年ごろ、アパマは母方の又従兄にあたるキュレネ王マガスに嫁いだ。二人の母方の祖母どうしは父方の従姉妹の関係にあり、その祖母たちの父は兄弟であった。この結婚は王朝間の縁組であり、アンティオコス1世がマガスとの政治的な同盟の一環として取り決めたもので、同盟の目的はエジプトへの侵攻にあったとされる。これによりアパマはキュレナイカの王妃となり、キュレナイカには、君主でありマガスの妻であった彼女にささげられた顕彰碑文が現在も残っている。また、結婚後にプトレマイオス家になじみのあるアルシノエという名に改めた可能性があり、アルシノエの名で呼ばれることもある。なお、プトレマイオス1世の妻であったエウリュディケやベレニケ1世とは、遠い親族の関係にあった。紀元前270年より後に、アパマはマガスとの間に娘ベレニケ2世を産んだ。この娘が二人の間で知られる唯一の子である。紀元前250年、マガスとアパマは、ベレニケを父方の従兄にあたるプトレマイオス家の王子プトレマイオス3世エウエルゲテスと婚約させた。マガスとプトレマイオス3世の父は、母を同じくする異父兄弟の関係にあった。紀元前250年か紀元前249年のいずれかにマガスが亡くなると、アパマは寡婦となり、キュレネの王位継承者である娘の母として大きな力を持った。プトレマイオス朝からキュレナイカを守るため、アパマは母方の叔父にあたるマケドニアの王子「美男のデメトリオス」をキュレナイカに呼び寄せた。娘を妻として与え、見返りに王とする条件を示すと、デメトリオスはこれを受け入れてベレニケと結婚した。王位につく際に反対はなかったが、やがて彼は向こう見ずといえるほど野心的になったという。
その後、アパマとデメトリオスは愛人関係になった。ベレニケは母と夫の関係に嫉妬し、二人と言い争ったうえで、デメトリオスに対するクーデターを率いた。デメトリオスはアパマの腕の中で死んだとされる。詩人カリマコスの詩「ベレニケの髪」は、失われたがカトゥルスのラテン語訳または翻案で知られ、ベレニケの支持者によるこの殺害を指すらしい。そこには「若い娘のころからどれほど勇敢だったか思い出させよう。王との結婚を得たあの勇敢な行いを忘れたのか」という趣旨の一節がある。
デメトリオスの死後、キュレナイカはプトレマイオス朝の領土に組み入れられた。ベレニケ2世はキュレナイカを離れてエジプトに渡り、従兄のプトレマイオス3世と結婚してエジプトの王妃となった。アパマの最後の運命は分かっていない。なお、デメトリオスはアパマにとって母方の叔父であり、娘ベレニケにとっては大叔父にあたる人物だった。娘とともにアレクサンドリアへ行き、そこで娘の家族とともに落ち着いた可能性が指摘されている。
同じ年に亡くなった人物
- ダッタートレーヤ (紀元前300)
- アイトーリアーのアレクサンドロス (紀元前300)
- グラウベールマン (紀元前 300年(推定))
- Craterus (紀元前300)
- 小ケフィソドトス (紀元前 300年(推定))
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