HISTORICAL PERSON · 990年没

清原元輔

平安中期の貴族・歌人で三十六歌仙の一人、清少納言の父。梨壺の五人として万葉集の訓読や後撰和歌集の編纂にあたった。勅撰集に106首が入集し、百人一首にも採られ、家集に元輔集がある。

生涯
990年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

清原元輔は、平安時代中期の貴族・歌人である。内蔵允・清原深養父の孫で、下総守・清原春光の子にあたり、官位は従五位上・肥後守に至った。娘に清少納言がいる。三十六歌仙の一人に数えられる。母は高向利生の娘、妻は周防命婦で、子には清原為成、清原致信、戒秀、豊後清原氏の祖となった清原正高らがいる。

官歴の始まりは村上朝の天暦5年(951年)正月で、河内権少掾に任ぜられたが、実際には任地へ赴かない遙任だったらしい。同じ年の10月、勅撰和歌集撰集の命により撰和歌所寄人となり、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓読作業と『後撰和歌集』の編纂にあたった。応和元年(961年)に少監物、翌年に中監物となり、大蔵少丞を経て、冷泉朝初頭の康保4年(967年)10月には民部卿・藤原在衡の申請で民部少丞に転じ、12月に民部大丞へ昇った。円融朝初頭の安和2年(969年)、62歳で従五位下・河内権守に叙任された。天延2年(974年)には周防守に任ぜられて受領となる。周防国では鋳銭事業が行われたらしく、鋳銭長官も兼ねた。さらに在任中に薬師寺の廓の造営を担当し、その功で天元3年(980年)に従五位上に叙せられている。

寛和2年(986年)、79歳の高齢で肥後守に任ぜられ、再び受領として九州へ下った。周防守を一期勤め上げたので一定の経済基盤はあったと想定されるが、子息の官途がはかばかしくなかったことから、清原家の家計はそれほど豊かではなかった可能性があり、それが高齢での地方赴任につながったとも考えられている。またこの任官は、娘婿である橘則光の母で花山天皇の乳母だった右近が、天皇に強く推薦した結果と想定されている。永祚2年(990年)6月、赴任5年目に任地で亡くなった。享年83で、当時としては非常に長命であった。熊本市の清原神社(北岡神社飛地境内)には祭神として祀られている。

歌人としては、梨壺の五人の一人として40代の村上朝から名声が高く、特殊な地位を得ていた。藤原公任の『三十六歌仙』や藤原定家の『百人一首』に選ばれ、『拾遺和歌集』の49首をはじめ、勅撰集に106首が入集している。家集『元輔集』には群書類従本156首、歌仙歌集本262首、前田家本192首があり、重複などを除いた実数は510首にのぼる。これらによると、元輔は当時の権力者の家に頻繁に出入りし、儀礼の具として詠んだ和歌が多く、いわば準職業的に歌を作っていたらしい。とくに小野宮家の藤原実頼・頼忠・実資らに対する歌は20首を超える。詠み方は沈思型ではなく、口に任せて即吟したといわれる。

没後にも名声を示す逸話が残る。一条朝に女房勤めをした清少納言は、父の名を辱めたくないとして歌は詠まないと言って許されたという。中宮・藤原定子からは、元輔の「後」といわれる君が今夜の歌から外れているのか、という意味の歌を贈られた(『枕草子』)。鎌倉時代の順徳天皇も、元輔を大中臣能宣と並べて、代々の歌人の家柄でもあり、まことに歌人にふさわしいと評した(『八雲御抄』)。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、賀茂祭の奉幣使を務めた際の話がある。元輔が落馬して冠が落ち、禿げ頭があらわになった。夕日に輝く頭を人々が笑うと、冠もかぶらないまま、落馬して冠を落とした人々の例を挙げ、物見車の一台一台に長々と弁解して歩き、見物人はいっそう面白がったという。ひょうきんな一面を伝える話である。

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