伝記
サブク・ティギーンは、ガズナ朝の第4代アミール(在位977年-997年)である。942年頃に生まれ、997年8月5日に没した。もとはガズナ朝の創始者アルプテギーンに仕えたグラーム(軍人奴隷)で、その治世以後の王朝が世襲制となったことから、事実上のガズナ朝の創始者とされている。名はテュルク語で「愛される君主」を意味するとされる。
若いころのことはあまり知られていない。自らの訓戒の書では、バルスハン部族の出身と述べており、カルルク系の部族に属したと考えられる。父の名はジュクとされるが、後世の歴史家はカラ・ベチュケムという名を挙げ、さらに作られた系譜によってササン朝最後の王ヤズデギルド3世と結びつけてもいる。サブク・ティギーンの語るところでは、部族が襲われて自分も女性や子どもたちとともに捕らえられ、敵対する部族によってナフシャブの奴隷市場で売られた。のちにアルプテギーンに買われ、よそ者でありながらやがて周囲のペルシア人社会に溶け込んだという。『統治の書』は、購入の3日後には天幕長に抜擢されたと伝える。18歳のときには200人を率いる兵隊長となっていた。作法や狩り、ポロ、弓術ではアルプテギーンの流儀に倣い、民衆や部下に寛大に接する点も見習った。
アルプテギーンはサーマーン朝の近衛軍司令官であったが、962年に失脚してガズナで独立の政権を築こうとし、サブク・ティギーンもこれに従ってサーマーン朝軍を破る戦いを助けた。アルプテギーンはガズナの領主アブー・バクル・ラウイークから町を奪い、総督として認められたが、963年に没し、子のアブー・イスハーク・イブラーヒームが後を継いだ。966年にイブラーヒームが没したのち、ガズナのテュルク系軍人たちはサーマーン朝と和解しつつも自立を保ち、自分たちの中から指導者を選んだ。ビルゲティギーン、ボリティギーンの治世を通じて、サブク・ティギーンは部下たちの間で威信を高めていった。
977年、不人気なボリティギーンに飽きたガズナの市民は、ラウイークの子アブー・アリー・ラウイークを迎えようとした。カーブルのヒンドゥー・シャーヒー朝がこれを支援して大軍を送ったが、サブク・ティギーンはガルデーズ、ガズナ、バーミヤーンの守備隊をまとめ、チャルフで侵入軍を破ってラウイークを討ち取った。この反乱を鎮めたのち、軍の支持を得てボリティギーンに代わり君主の座を継いだ。即位後は領土の拡大を進め、978年には南のルッハジとブストを攻めて、先に入っていたライバルのテュルク系集団を従えた。さらにバルーチスターン北東部のクスダールや、シャーヒー朝に属する国境の砦にも進んだ。インドのパンジャーブ地方にも侵入し、ラージプートを中心とするインド諸王の連合軍を破って、北方の要衝ペシャーワルを占領した。またサーマーン朝支配下のトランスオクシアナで起きた反乱の鎮圧を助け、994年にはサーマーン朝からホラーサーン地方の総督に任命された。両者の主従関係は名ばかりで、すでにサブク・ティギーンはサーマーン朝を上回る力を持っていた。
997年、ガズナへの途上で没した。子のイスマーイールを後継者に指名していたが、イスマーイールは長子マフムードによって廃位された。後世のガズナ朝の歴史家は、サブク・ティギーンを公正で寛大な創始者として理想化したが、その特質は実際の根拠を欠くかもしれないとも指摘される。
同じ年に亡くなった人物
- エイヴィンド・フィンスソン (990年)
- アブル・ワファー (990年代没)
- ハインリヒ・フォン・シュパイアー (990年代没)
- 藤原兼家 (990年没)
- アブー・ハーミド・サーガーニー (990年没)
同じ地域に関係する人物
- アンティマコス1世 (紀元前160)
- アンワリー (1189年没)
- アルスラーン・イスラーイール・イブン・セルジューク (1032年没)
- スピタメネス (紀元前328年没)
- ダレイオス3世 (紀元前330年没)