HISTORICAL PERSON · 1891年没

ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ

プロイセン参謀総長を30年務め、対デンマーク・普墺・普仏の3戦争を勝利に導いてドイツ統一に貢献した。近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。

生涯
1891年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出生地
ドイツ連邦共和国(パルヒム)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケは、1800年10月26日、メクレンブルク=シュヴェリーン公国のパルヒムで生まれた、プロイセンおよびドイツの軍人である。伯爵で、最終階級は元帥。甥の小モルトケと区別して「大モルトケ」と呼ばれ、近代ドイツ陸軍の父とされる。父はプロイセン軍の退役中尉で、母ヘンリエッテはリューベックの裕福な商家の出であり、モルトケは八人兄弟の三男だった。父は古い貴族の家柄だったが没落しており、農場経営にも失敗して、モルトケが生まれた頃には伯父の家に居候していた。母は聡明で数か国語を話し、モルトケの才能は母親譲りと言われる。1806年に父はホルシュタイン公国に農場を購入し、デンマーク国籍を取得して、のちにデンマーク軍の中将まで昇進した。

考古学者を志したが、貧しい家計が許さず、1811年に次兄とともにコペンハーゲンのデンマーク王立陸軍幼年学校に入学した。学友によると物静かで、勤務と勉学には他に例がないほど真面目だったが、繊細で体が弱く、厳格な教育は苦手だった。学校側は軍人になることは考えられないと評価したが、1818年の近侍試験には第一位で合格し、1819年1月に第四位で卒業してデンマーク軍の少尉となった。デンマークはナポレオン敗退とともにノルウェーを失い、将校が過剰になって出世の見込みが薄れ、1821年にベルリンを訪れてプロイセン軍に憧れた彼は、1822年1月にデンマーク軍を辞めてプロイセン軍の試験を受けた。良好な成績で、近衛歩兵第8連隊に少尉として配属された。

1823年10月にプロイセン陸軍大学校に入学した。校長は『戦争論』のクラウゼヴィッツだったが、直接教えを受ける機会はなかった。軍事専門書には最小限の時間しか割かず、語学や文学、地理の勉強に没頭し、フンボルトやリッターから強い影響を受けた。1826年に「極めて優良」の成績で卒業した。少尉時代の生活は貧しく、アルバイトで物書きをして、1827年に短編小説『二人の友人』を出版し、『ローマ帝国衰亡史』のドイツ語訳も請け負ったが、計画は中止された。地図製作に関する著作が評価されて、1828年から参謀本部陸地測量部でシュレージエンやポーゼンの地図の作製にあたり、1832年に参謀本部へ移ってフリードリヒ大王の戦史の編纂に取り組んだ。

1835年のコンスタンティノープルへの旅行で、オスマン帝国陸軍大臣に才能を買われ、その軍事顧問としてトルコに派遣された。1838年にはトロス軍司令官ハーフィツ・パシャの補佐官になった。1839年のエジプト・トルコ戦争では、背水の陣となるビラディックに全軍を集めるよう提案したが、司令官はイスラム聖職者の言葉を信じて却下し、ニジプの戦いでオスマン軍は敗れた。帰国後は参謀畑と王族の侍従武官を経て、1858年にプロイセン参謀本部の参謀総長に任じられた。

当時の参謀本部の地位は低く、1863年の対デンマーク戦争前半では作戦に直接介入できなかったが、後半に介入できるようになり、この勝利で影響力を高めた。1866年の普墺戦争と1870年の普仏戦争では全面的な作戦指導を任された。戦略は「分散進撃・包囲・一斉攻撃」を特徴とし、敵戦力の撃滅を主張するクラウゼヴィッツの思想を受け継ぎ、鉄道や電信などの新技術の導入に積極的だった。ケーニヒグレーツの戦いとセダンの戦いは高く評価される。ドイツ帝国の樹立後はフランスとロシアに対する予防戦争を求め、二正面作戦の計画を立てたが、1888年に高齢を理由に参謀総長を辞し、1891年4月24日にベルリンで死去した。

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