伝記
シャルルは、カロリング家出身の下ロレーヌ公(下ロートリンゲン公、在位977年から)で、西フランク王位を望みながら果たせなかった人物である。953年の夏にランまたはランスで生まれた。父は西フランク王ルイ4世、母は東フランク王ハインリヒ1世の娘ゲルベルガで、西フランク王ロテールの弟にあたり、カール大帝の6代目の子孫でもある。双子の兄弟アンリがいたが、洗礼の後まもなく亡くなったという。父ルイ4世がノルマン人に捕らえられた際、解放の代償として息子たちが人質に求められたが、母ゲルベルガはシャルルのみを送り、ルイ4世はユーグ・カペーの保護のもとで解放された。
954年に父が没すると、王位は兄ロテールが継いだ。王国を息子たちで分ける従来の慣行は行われなかった。シャルルは976年、皇帝オットー2世が二人の伯を父の遺領から排除した際、ユーグ・カペーらの軍に加わって戦いに参加し、モンスの前で決着のつかない大会戦があった。そして977年には、兄ロテールの妃でイタリア王ロターリオ2世の娘エマを、ラン司教アダルベロンとの密通のかどで告発した。フィムのサント=マクル教会会議は証拠不十分で二人の無実を認めたが、シャルルが主張を続けたため、王国から追放されて従兄弟のオットー2世のもとに逃げた。オットーはロテールを追い出した後にシャルルを王位につけると約束し、シャルルが臣従の礼をささげる代わりに、下ロートリンゲン公位を与えた。
978年8月、ロテールはユーグ・カペーらとともにドイツに侵攻してアーヘンを占領したが、オットー2世もシャルルも捕らえられなかった。10月、オットー2世とシャルルはフランスに侵攻し、ランス、ソワソン、ランの周辺を荒らした。ランでシャルルはメッツ司教ディートリヒ1世から戴冠され、フランス王として宣言された。ロテールはパリへ逃れたが包囲された。しかし11月30日、ユーグ・カペーの救援軍に包囲を解かされ、オットーとシャルルは追われてアーヘンまで退き、ランも奪還された。シャルルが兄の臣下でありながらオットーの臣下となったことは反逆とみなされ、王位継承から除外された。
979年頃、シャルルは聖ギュデュルの聖遺物をブリュッセルの聖ガウゲリクス教会に移し、ブリュッセル最初の常設の要塞を築いた。通常、この出来事がブリュッセルの始まりと考えられている。
986年にロテールが死に、ルイ5世が後継者に選ばれ、翌年ルイ5世が死ぬとユーグ・カペーが選ばれて、カペー朝が成立した。シャルルは不名誉にも無視された。有力な後ろ盾を得る結婚ができず、財産も十分でなかったことも、王位を継げなかった理由とされる。シャルルはユーグ・カペーに戦いを挑み、ランスとランを押さえたが、991年の聖木曜日(3月26日)にアダルベロン司教の裏切りで捕らえられ、オルレアンに監禁された。そこで993年かそれ以前に死去した。970年にモー伯の娘アデライードと結婚しており、息子オトンが下ロートリンゲン公位を継いだ。娘にはルーヴァン伯ランベール1世の妻となったジェルベルジュと、ナミュール伯アルベール1世の妻となったエルマンガルドがおり、息子にはほかにルイとシャルルがいた。1666年、マーストリヒトの聖セルヴァティウス教会でシャルルの墓が発見された。遺体は1001年に埋葬されたとみられるが、それは没年ではないと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート (ブルグント王) (993年没)
- エグベルト (993年没)
- ギヨーム1世 (プロヴァンス伯) (993年)
- エルベール3世 (ヴェルマンドワ伯) (993年)
- ボレイ2世 (993年没)
同じ地域に関係する人物
- パトリス・ド・マクマオン (1893年没)
- ルネ・ド・フランス (1574年没)
- ユベール・キュリアン (2005年没)
- フランソワ (ギーズ公) (1563年没)
- シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー (1650年没)