伝記
藤原道綱母は、平安時代中期の歌人で、『蜻蛉日記』の作者である。名前は伝わっておらず、藤原道綱の母という呼び名で知られる。承平6年(936年)ごろ、藤原倫寧の娘として生まれたと推定され、935年生まれとする説もある。没年は長徳元年(995年)ごろとされる。母については諸説あり、源認の娘とする説のほか、藤原理能と同じく藤原春道の娘とする推測もある。
天暦8年(954年)に藤原兼家の妻の一人となり、翌天暦9年(955年)に息子の道綱を産んだ。身分の高くない国司階級の家の出であったため、兼家の妻となる際には妾の立場であったともいわれる。当時の結婚は一夫多妻で、妻は夫と別に暮らし、夫が通わなくなれば関係は終わった。道綱母と兼家の関係は穏やかではなく、彼女は出家を考えたこともあったが、息子や家族に思いとどまらせられたという。
天禄元年(970年)ごろに兼家が東三条殿に移り住むと、同年4月から兼家の来訪は激減した。翌年2月ごろには近江という女性が兼家の妻の一人となった。天禄3年(972年)には、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取って養女とし、天禄4年(973年)8月末に中川へ転居した。翌年には兼家の異母弟の藤原遠度が養女に求婚したが、結婚には至らなかった。954年から974年までの二十年間にわたる兼家との結婚生活を『蜻蛉日記』につづり、この日記は、和歌と散文を組み合わせた、女性の暮らしと心の動きを描く作品となった。日記は上中下の三巻からなり、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。仮名による散文の可能性を広げ、紫式部の『源氏物語』にも影響を与えたと評される。
日記を書き終えたあとの暮らしにも動きがあった。貞元2年(977年)10月、兼家は関白藤原兼通によって治部卿に左遷され、道綱も土佐権守に左遷された。このとき兼家が円融天皇に贈った嘆願の長歌は、道綱母が詠作を助けた可能性が指摘されている。翌年に兼家の次女詮子が入内すると、兼家は右大臣に任じられ、道綱も元の左衛門佐に戻った。天元3年(980年)に詮子が懐仁親王を産むと、その祝いに猪の置物を贈ったと考えられている。寛和2年(986年)には内裏歌合のために道綱の歌を代作している。同年6月の寛和の変では、道綱が三種の神器を東宮に渡し、東宮が即位して一条天皇となり、兼家は摂政となった。正暦4年(993年)2月末に病に伏したのち、5月5日には東宮の帯刀陣歌合に右方として出詠した。長徳元年(995年)ごろに亡くなり、翌年5月2日に一周忌の法事が行われた。
和歌の名手として評価は高く、『拾遺和歌集』以下の勅撰集に36首が採られ、弟の藤原長能や孫の道命阿闍梨とともに中古三十六歌仙に選ばれた。女房三十六歌仙にも名を連ねる。『大鏡』は彼女を「きはめたる和歌の上手」と評した。小倉百人一首では右大将道綱母として載る。裁縫にも優れ、兼家は公卿になってからも袍の仕立て直しを頼んだ。『蜻蛉日記』には、兼家が手紙もろくに寄こさないのに仕立物の依頼ばかり送ってくることに腹を立てる記事があり、それだけ腕が信頼されていたとも解される。『尊卑分脈』には日本で最も美しい女性三人のうちの一人と記されるが、根拠ははっきりしない。兄の理能は清少納言の姉を妻としており、『枕草子』には彼女の詠んだ歌が紹介されている。『更級日記』の作者である菅原孝標女は、道綱母の妹の娘にあたる。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ2世 (バイエルン公) (995年没)
- John Geometres (995年(推定))
- ケネス2世 (スコットランド王) (995年)
- ハーコン・シグルザルソン (995年没)
- Sahib ibn Abbad (995年)