HISTORICAL PERSON · 1892年没

ジョン・クーチ・アダムズ

イギリスの数学者・天文学者。1843年に天王星の運動の狂いから海王星の位置を予言し、予測の1度以内で1846年に発見された。ケンブリッジ大学教授を33年務め、月の軌道なども研究した。

生涯
1892年没
死亡地
イギリス連邦(ケンブリッジシャー / ケンブリッジ)
出生地
イギリス連邦(Laneast)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケンブリッジシャー)

伝記

ジョン・クーチ・アダムズは、1819年6月5日に生まれ、1892年1月21日にケンブリッジで没した、イギリスの数学者・天文学者である。コーンウォールのラニーストにあるリドコットという農場で、七人きょうだいの長男として生まれた。父トマスは貧しい小作農、母タビサは農家の娘で、一家は敬虔なウェスレー派の信徒であり、音楽を楽しんだ。弟のひとりウィリアムは、のちにロンドンのキングズ・カレッジの教授となった。母は叔父ジョン・クーチから初歩の教育を受けて小さな蔵書を受け継いでおり、アダムズは幼いころから天文学の本に興味を抱いていた。村の学校でギリシア語と代数の初歩を学び、十二歳でデヴォンポートの母の従兄が営む私塾へ行って古典を学んだが、数学はほとんど独学で、職工学校の図書室で勉強した。1835年にはハレー彗星を観測し、翌年には自分で天文の計算や予測、観測を始めて、家庭教師をして費用を作った。

1836年に母が小さな土地を相続し、数学の才を認めた両親は彼をケンブリッジ大学へ送った。1839年10月にセント・ジョンズ・カレッジに給費生として入学し、1843年に学士号を取得したときには、その年の首席の数学優等学位とスミス賞第一位を得た。ブヴァールが1821年に出した天王星の軌道表は、その後の観測と大きく食い違っており、アダムズは学部生のころにこの乱れを知って、他の天体の摂動によるものだと確信した。ニュートンの万有引力の法則と天王星の観測データだけから、摂動を与える天体の質量、位置、軌道を導けると考え、1841年7月3日にこの問題に取り組む意志を書き留めた。

1843年の最終試験の後にカレッジのフェローに選ばれ、夏休みにはコーンウォールで、六回に及ぶ計算の最初のものを行った。ケンブリッジに戻ってからも、学部生に教えて稼いだ金を実家に送り、弟たちの教育費に充てたという。天王星の公転運動の狂いから海王星の存在と位置を予言したのは、1843年10月とされる。1845年9月中ごろにはケンブリッジ天文台長チャリスに成果を伝えたとされるが、その経緯には論争がある。10月21日には、予約なしにグリニッジの王立天文台長エアリーを二度訪ねたが会えず、原稿を残したとされる。エアリーは説明を求める手紙を送ったが、アダムズは返答を完成させなかった。理由は、神経質さや先延ばし、整理の悪さなどが論じられている。一方、フランスのルヴェリエは1845年11月に同様の研究をパリの科学アカデミーに報告し、ルヴェリエの座標をもとに、1846年9月23日にベルリン天文台のガレが、予測の一度以内の位置で海王星を確認した。発見の功績の配分をめぐっては、論争があった。

アダムズはのちに、しし座流星群の軌道を研究して流星群の起源を説明し、月の軌道の研究も行った。1849年に王立協会のフェローに選ばれ、1848年にコプリ・メダルを受け、1859年からは死ぬまでケンブリッジ大学で教授を務めた。1866年には王立天文学会のゴールドメダルを受け、1884年には英国の代表として国際子午線会議に出席した。数学の分野でも、常微分方程式のアダムズの解法に名前が残る。ケンブリッジ大学のアダムズ賞は海王星の位置の予測を記念し、海王星のリングや月のクレーターにも彼の名がつけられた。

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