伝記
チャールズ・ハッドン・スポルジョンは、1834年6月19日にエセックス州ケルヴェドンで生まれ、1892年1月31日に没したイギリスのバプテスト派の牧師・伝道者・説教者である。教派を越えて影響を与え、「説教者の君主」あるいは「講壇のプリンス」と呼ばれた。会衆派の牧師の家に生まれ、16人きょうだいの長男だった。祖先は、スペイン王フェリペ2世によるプロテスタント迫害を逃れて、1570年ごろにオランダからイングランドへ移った家系とされ、17世紀にも非国教徒への迫害を受けた。生後まもなく両親がコルチェスターに移ったため、5歳まで祖父の牧師ジェームズのもとで育てられた。そこで多くの本を読み、とくにバニヤンの『天路歴程』は生涯に影響を残した。リチャード・バクスターやジョン・オーウェンらピューリタンの著作も読んだ。10歳のとき、巡回牧師リチャード・ニルが、この少年は大勢の人々に福音を説くだろうと語り、少年の心に深く刻まれた。
1848年から1850年にかけては、罪の自覚に苦しみ、疑いと苦悩の時期を過ごした。信仰深い環境で育ちながら、自分は真のキリスト教徒ではないと思い悩んでいた。1850年の冬のある日曜日、礼拝に向かう途中で突然の吹雪に遭い、小さなメソジストの礼拝堂に入った。説教者が来られず、素朴な信徒が代わりに壇上に立ち、イザヤ書45章22節の「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」という言葉を、ぎこちなく繰り返して、イエス・キリストを仰ぐよう呼びかけた。スポルジョンはキリストを仰いで回心を経験した。その後、会衆派の伝統を離れて成人洗礼を受け、バプテスト派の信者となった。これより前の1849年からバプテスト派の信者が営む学校で補助教員を務めており、ケンブリッジに移ってバプテスト教会に籍を移すと、日曜学校で教え、最初の説教も行った。1852年に補助教員をやめ、ウォータービーチのバプテスト教会の牧師に就任し、一年で10人の教会が400人の教会に成長した。
1854年、20歳でロンドンの中心部にあるニュー・パーク・ストリート・バプテスト教会の牧師となった。1856年にサリー・ガーデン音楽堂で説教したときは、1万2000人が出席し、1857年にクリスタル・パレスで説教したときは、2万3654人が出席したと伝わる。1861年には、ロンドン南部のニューイントンにメトロポリタン・タバナクル教会を建てた。1874年に双子の息子に洗礼を授け、そのうちトーマスは1884年に父の後を継いだ。社会改革にも積極的で、タバナクル教会は35の慈善組織を始め、それを支えるため私財をつぎこみ、死去のときには自宅のほかにほとんど財産がなかったという。国教会の聖職者にも講演し、バプテスト派以外の会合でもよく説教するなど、幅広い交友関係があった。独学の神学者で、その学問は宗教改革者やピューリタンの著書によって形づくられた。1万2000冊の蔵書があった。創設した神学校パスターズ・カレッジは、今も英国で最も多くの神学生を抱える神学校の一つとされる。説教は毎週印刷され、60冊以上の説教集が刊行された。1892年、保養先の南フランスのメントンで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン (1892年没)
- ジョージ・ビドル・エアリー (1892年没)
- コンスタンティン・フォン・アルフェンスレーベン (1892年没)
- コンスタンチン・ニコラエヴィチ (1892年没)
- ヨハン・エドゥアルト・エルトマン (1892年没)
同じ地域に関係する人物
- ハーバート・バデリー (1931年没)
- アンリ・ルバスク (1937年没)
- Adolphe Delattre (1854年没)
- マックス・デキュジス (1978年没)
- ニコラエ・ティトゥレスク (1941年没)