HISTORICAL PERSON · 1892年没

アルフレッド・テニスン

ヴィクトリア朝の詩人。亡き友を悼む長詩『イン・メモリアム』や『国王牧歌』を書き、桂冠詩人となった。『砂州を越えて』は辞世の歌として名高い。

生涯
1892年没
死亡地
イギリス連邦(ウェスト・バークシャー / アルドワース)
出生地
イギリス連邦(Somersby)
出典
世界地図
イギリス連邦(ウェスト・バークシャー)

伝記

初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンは、1809年8月6日にリンカンシャー州サマズビーで生まれ、1892年10月6日に没したヴィクトリア朝時代のイギリスの詩人である。美しい措辞と韻律を持ち、日本でも愛読されている。牧師ジョージ・クレイトン・テニスンと妻エリザベスの12人の子の4番目で、八人の男子のうち二人の兄弟フレデリックとチャールズも詩人となった。一家は牧師館で暮らしたが、その家庭には狂気やアルコール依存、憂鬱がつきまとっていたという。祖父が父を差し置いて叔父に財産を譲ったことへの失望が、父の人生に影を落としたともされる。それでも一家は、田舎の牧師の給与で、海辺で夏を過ごすくらいの暮らしを送った。1815年のクリスマスに、ラウスの町に住む祖母のもとへ送られて小学校に通ったが、教師は厳格で、このときの4年間はよい思い出にならなかった。1820年にサマズビーに戻り、父の指導のもとで教育を受けた。牧師館には優れた蔵書があり、この図書館が英文学の古典についての広い知識の土台となった。

ごく幼いころから多作で、12歳で6000行の叙事詩を、14歳で無韻詩の劇を書いたという。13歳のとき、母方のおばに宛てた手紙で、ミルトンの『闘士サムソン』の批評を、ホラティウスやダンテなどの引用をまじえて書き、少年として異例の読書量を示した。1824年にバイロンの訃報に接したことも、深い印象を残した。父は「もしアルフレッドが死んだら、我々の最も偉大な詩人の一人が失われる」と言ったと伝えられる。1827年、兄のチャールズやフレデリックとともに詩集『二人の兄弟の詩』を出版した。1831年までケンブリッジ大学に学び、1830年の単独の詩集『叙情を主とする詩集』にはキーツの影響が見える。1833年に『シャロットの姫』を発表したが酷評され、以来約10年間は沈黙した。

1832年に学友のハラムと大陸を旅したが、翌年ハラムが急死し、強い衝撃を受けた。その死を悼む長詩『イン・メモリアム』を書き始め、十数年にわたる自己の思想の成長も織りこんで、1849年に完成させた。友人の死と進化論によって揺れ動く信仰を歌った詩で、序詩は「つよき神の子、朽ちぬ愛よ」として讃美歌275番に収録されている。1842年に出した詩集で名を成し、1845年に年金を授与された。1847年に叙事詩『王女』を発表し、1850年にはウィリアム・ワーズワースの後継者として桂冠詩人となった。この年に結婚している。

1855年の『モード』、1859年から1864年にかけての、アーサー王伝説に取材した『国王牧歌』、哀れな水夫の物語詩『イーノック・アーデン』(1864年)などを発表し、1884年にはテニスン男爵に叙せられた。1889年の短詩『砂州を越えて』は、辞世の歌として名高い。1892年に死去し、ウェストミンスター寺院に埋葬された。葬式では、愛唱した讃美歌「聖なる、聖なる、聖なるかな」が歌われた。死去した地はサセックス州のラーガーシャルである。次男(のちの第2代オーストラリア総督)が爵位を継ぎ、現在の爵位は6代目が継承している。

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