伝記
マケドニアのフティアは、紀元前3世紀に生きたエペイロス王家の王女である。エペイロス王アレクサンドロス2世(在位は紀元前272年から260年)と、その異母妹で妃となったオリュンピアス2世との間に生まれた娘で、後にマケドニア王デメトリオス2世(在位は紀元前239年から229年)の妃となった。父母は兄妹の関係にあり、兄弟にはピュロスとプトレマイオスがいた。父アレクサンドロス2世は、ピュロスと、シチリアの僭主アガトクレスの娘ラナッサとの子であった。
アレクサンドロス2世が亡くなると、オリュンピアス2世は幼いピュロスとプトレマイオスの後見人となった。アイトリア人がアカルナニアの一部を取ろうとしていたため、母は自らの地位を守り、アカルナニアの領土を保つ助けを得ようと、マケドニア王との同盟を求めた。縁組はその手段で、紀元前230年代の初めにはマケドニアとエペイロスの接近が起きていたという。こうして、母の取り決めによりフティアはデメトリオス2世に嫁いだ。結婚は紀元前239年ごろとされ、デメトリオスにとっては三度目の結婚だったという。この結婚のため、先妻のストラトニケはマケドニアを去ってセレウコス朝の領内へ向かった。
フティアが産んだ子については、はっきりしない。フィリッポス5世の母だったかもしれないとされる。彼が結婚の直後の紀元前238年に生まれたとみる歴史家もいる。一方、ポルピュリオスの伝えによれば、フィリッポス5世の母はクリュセイスという捕虜の女で、のちにアンティゴノス・ドソンの妻になったという。フティアとクリュセイスを同一人物とみる歴史家もいるが、妻と妾という別人だったとみる歴史家もいる。ロシアの歴史家たちは、ピュロス、フィリッポス5世、ビテュニアのプルシアス2世に歯の稀な遺伝的異常があったことから、フィリッポス5世の母をピュロスの孫娘フティアとみた。この見方では、プルシアス1世の妃アパマも、デメトリオス2世とフティアの娘となる。
結婚のあと、フティアの名は史料に見えなくなる。すでに亡くなったか、離縁されたのだろうと推測されている。
同じ年に亡くなった人物
- ビュザンティオンのホメーロス (紀元前300)
- オリュンピアス2世 (エピルス) (紀元前 300年(推定))
- アパメー2世 (紀元前300)
- クレオンブロトス2世 (紀元前 300年(推定))
- フィラエニス (紀元前300)
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