HISTORICAL PERSON · 1893年没

ジャン=マルタン・シャルコー

パリのサルペトリエール病院で活躍したフランスの神経科医。ALSの定義づけやパーキンソン病の命名を行い、催眠研究でも知られる。

生涯
1893年没
死亡地
フランス共和国(ニエーヴル県 / Montsauche-les-Settons)
出生地
フランス共和国(rue du Faubourg-Poissonniere)
出典
世界地図
フランス共和国(ニエーヴル県)

伝記

ジャン=マルタン・シャルコーは、1825年11月29日にパリで生まれたフランスの神経科医で、病理解剖学者、パリ大学医学部の臨床教授である。仕事は、発展途上にあった神経学と心理学の分野に大きな影響を与えた。自伝的な著作は残しておらず、生い立ちは主に業績と同僚の証言から知られる。小市民の家庭に育った四人兄弟の長男で、父は馬具職人として、母方の祖父の車大工の事業に勤めていた。シャルコーは父から素描を学び、13歳のとき、1839年に母を亡くした。ブルボン学院、のちにサン=ルイ高校の寄宿生として学び、文学のバカロレアに合格し、さらに科学のバカロレアのための1年と、医学部での準備の1年を過ごした。医学部では、ネッケル病院やシャリテ病院などで実習を積んだ。1847年にパリの病院のインターンの選抜試験に一度失敗したが、翌年に19人中5番で合格した。

インターンとして、ジュール・ベリエ、ピオリー、ラヤーらのもとで働いた。後二者から、クロード・ベルナールが考案した臨床観察の方法を学び、シャリテ病院では、ヒステリーの研究者であったブリケの下でこの病気に出会った。1851年にはラヤーの推薦で早くも生物学会に入会し、1852年には、サルペトリエール病院で女性と老人の病棟を担当しながら学位論文を書いて、痛風と慢性関節リウマチを区別したことで老年医学の歴史にも名を残した。

36歳でサルペトリエール病院の医長の一人となった。当時この病院は4000人から5000人ほどの貧しい老女を収容する養老院になっていたが、彼は政治的な手腕を生かして膨大な臨床データを集めることに成功し、当時最高峰の神経学者となった。シャルコー・マリー・トゥース病などの病名にその名を残し、ジェームズ・パーキンソンが報告した「振戦麻痺」を再発見してパーキンソン病と命名した。筋萎縮性側索硬化症を厳密に定義づけたことでも知られ、デュシェンヌとともに近代神経学の創始者とされる。

生体磁気説に基づく催眠療法と解離のデータは、現在も参考にされている。彼は、磁気理論による本物の催眠を「大催眠」、暗示によるトランスを「小催眠」と呼んだ。一般に公開された彼の講義は火曜講義と呼ばれ、そこでは大催眠の実演が行われた。この催眠を支持する学派は「サルペトリエール学派」と呼ばれたが、実演としての催眠はかえって信憑性を落とし、リエボーらのナンシー学派の小催眠説と衝突した。1889年のパリの催眠に関する国際学会で、ナンシー学派の正当性が認められ、催眠療法から精神分析へと至る道がつけられた。ヒステリーと催眠をめぐる研究は、ピエール・ジャネの精神病理学と、一時期その門下にいたフロイトによる精神分析の創始の双方に霊感を与えたとされる。

息子のジャン=バティスト・シャルコーは医師で極地探検家となり、南極で発見した島に父にちなんでシャルコー島と命名した。彼自身は、1893年8月16日、ニエーヴル県のセットン湖で亡くなった。のちに、1885年のサルペトリエール病院を舞台に、彼と若い女性患者の恋愛を描いたフランス映画『博士と私の危険な関係』(2012年)が作られた。

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