HISTORICAL PERSON · 1672年没

ヤン2世 (ポーランド王)

ポーランド・リトアニア共和国の国王(在位1648〜1668年)。治世は大洪水時代にあたり、周辺国の侵入で国土が荒廃し、共和国は大国の地位から転落した。

生涯
1672年没
死亡地
フランス共和国(ニエーヴル県 / ヌヴェール)
出生地
ポーランド共和国(クラクフ)
出典
世界地図
フランス共和国(ニエーヴル県)

伝記

ヤン2世カジミェシュ・ヴァーザは、1609年3月22日に生まれ、1672年12月6日に没したポーランド・リトアニア共和国の国王で、在位は1648年から1668年である。ヴァーサ家の出身で、ジグムント3世の四男、母はその二番目の妃コンスタンツェ・フォン・エスターライヒにあたり、先王ヴワディスワフ4世の異母弟である。シロンスクのオポーレ公国の統治者でもあり、1660年までは名目のみのスウェーデン国王を称した。父は血統上スウェーデン王位を継いだが、1599年に叔父カール9世に廃位され、ヴァーサ家のポーランド王たちは同王位を要求し続けた。

ヤンは生涯の半分以上を兄の影で過ごした。母の出身国オーストリアの文化に憧れ、ポーランドのサルマティズム文化を軽んじたため、貴族の間に友人がほとんどいなかった。人望がなく秘密主義で、政治を嫌い、宮廷に勢力地盤を築けなかったという。一方、1633年のロシアとのスモレンスク戦争では優れた軍事的才能を示した。兄は又従妹のスウェーデン女王クリスティーナなどとの結婚で居場所を与えようとしたが失敗した。1635年にウィーンへ使節として赴いた際は、頼まれて神聖ローマ皇帝軍の戦闘に加わり、指揮した部隊が敗れた。

1636年に戻ると、グルデンターン男爵夫人との結婚を兄に禁じられ、代わりにクールラント公国の統治者に据えられかけたが、議会が拒否した。1638年にスペインでポルトガル副王を務めるべく旅立つが、途中でフランス当局に捕らえられ、宰相リシュリューの命令で投獄され、1640年にアレクサンデル・ゴシェフスキの外交努力で釈放された。1641年にイエズス会の修道士となる決意をし、1643年に入会して枢機卿となったが、兄の猛反対で共和国と教皇国の関係にひびが入った。1646年に聖職者の生活が合わないと悟って帰国し、1647年10月に枢機卿の地位を捨て、王位に立候補する準備を始めた。1648年、嫡男のないまま没した兄の跡を継ぐべく国王選挙に出て、フメリニツキーの率いるコサックの反乱軍が国内を荒らす中で選出され、兄の未亡人ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガと結婚した。

その治世は大洪水時代と呼ばれる。1654年からロシア、翌1655年からスウェーデンに攻め込まれ、領土の大半を占領されたヤンはシロンスクに亡命して抗戦を呼びかけた。1660年のオリヴァ条約でスウェーデン王位への要求を放棄し、リヴォニアとリガがスウェーデンの主権下に入ること、プロイセン公国が独立することも認めた。荒廃した国の再建のため王権強化を図り、フランスのコンデ公を後継の国王に生前指名する計画を進めたが、1665年にイェジ・セバスティアン・ルボミルスキが反乱を起こして実現しなかった。1667年のアンドルソヴォ条約では、事実上独立していたウクライナ・コサック国家の左岸ウクライナの主権を奪われた。同年、鬱病がちの国王を支えていた王妃が亡くなり、ヤンはますます孤立した。

1668年9月16日に退位してフランスへ移り、再びイエズス会に戻ってヌヴェールの聖マルタン修道院の院長として余生を送り、1672年に63歳で没した。二人の子は幼くして亡くなり、兄弟姉妹の誰も嫡出子を残さなかったため、ボナ・スフォルツァの最後の直系子孫となった。一方でオランダ絵画を熱心に集め、レンブラントやルーベンスらの作品を収めた美術コレクションを築いた。退位の際に絵画の大半をフランスに持ち出し、残りは略奪されたり着服されたりしたが、レンブラントの肖像画二点は今日ドレスデンの美術館で見ることができる。

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