伝記
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、1840年5月7日(ユリウス暦4月25日)に、ウラル地方のヴォトキンスクで、鉱山技師で工場長のイリヤの次男として生まれたロシアの作曲家である。叙情的で流麗、メランコリックな旋律と和声、華やかで効果的な管弦楽法により、クラシック音楽の中でも人気の高い作曲家となった。とりわけ後期の交響曲、バレエ音楽、協奏曲が愛好されるほか、管弦楽曲、オペラ、室内楽曲、独奏曲にも人気作がある。チャイコフスキーという姓は、祖父の代に、カモメを意味するウクライナ系のチャイカ姓から改められたもので、家系はウクライナ・コサックにさかのぼる。曽祖父は北方戦争のポルタヴァの戦いでピョートル1世のもとで活躍して有名になった。父は軍の中佐として鉱山を指揮した。母アレクサンドラは、父の2人目の妻で、18歳年下であり、フランス人とドイツ人の血をひく家の出である。父はフルートを吹き、母はピアノを弾き歌を歌うなど、音楽的な家庭であったが、祖先に職業音楽家はいなかった。6人の兄弟のうち、妹のアレクサンドラと双子の弟アナトーリーとモデストと、とりわけ親しかった。
1844年、家庭教師にフランス人のファンニ・デュルバッハが雇われ、4歳の彼は兄とともに学び、6歳のころにはドイツ語とフランス語を流暢に話せるようになった。彼はこの家庭教師に親しみ、母に代わる精神の拠り所だったといわれる。家にあったオーケストリオンで、モーツァルト、ロッシーニ、ドニゼッティなどの音楽に夢中になった。5歳からはピアノを習って音楽的な才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、1850年10月、10歳で彼をサンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入れた。同年7月にはグリンカのオペラ『皇帝に捧げた命』を鑑賞している。法律学校では聖歌隊の一員となった。
1854年6月13日、14歳のとき、コレラにかかった母が40歳で亡くなり、大きな打撃を受けた。母から離れて暮らしていたうえ、母が死んだというトラウマは、死ぬまで心に残った。この直後から音楽にいっそう専念し、作曲を始めた。最も古い作品とされるアナスターシャ・ワルツは、このころの作である。1855年にはピアノや和声学、声楽を学び始めた。ピアノの教師は彼の才能に感嘆したが、将来の音楽家を思わせるものではなかったと語ったという。それは、自身のロシアでの音楽家としての辛い経験から、彼に同じ目に遭ってほしくなかったためだと、のちに認めている。
1859年に法律学校を卒業し、法務省に9等文官として就職したが、仕事のほとんどは訴訟事務で、官吏としての職務にはあまり熱意がなかった。1861年には妹アレクサンドラがウクライナのカーメンカに領地を持つ大貴族ダヴィドフ家に嫁ぎ、彼はこの地を気に入って、1870年代には毎年のように訪れ、数々の楽曲を書いた。同年、初めての外国旅行にも出かけた。1861年の秋、知人の紹介で帝室ロシア音楽協会を知り、1862年9月から学び始めて、アントン・ルビンシテインのクラスで編曲と作曲を学んだ。この音楽クラスはルビンシテインによってペテルブルク音楽院に改組され、本格的に音楽の道に進むことを決意した彼は、1863年、23歳のときに法務省を辞し、音楽に専念した。1893年11月6日(ユリウス暦10月25日)に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ミハウ・エルヴィロ・アンドゥリオッリ (1893年没)
- パトリス・ド・マクマオン (1893年没)
- ジェイムズ・G・ブレイン (1893年没)
- リチャード・スプルース (1893年没)
- ファニー・ケンブル (1893年没)
同じ地域に関係する人物
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- イワン・クラムスコイ (1887年没)
- アレクサンドル・フリードマン (1925年没)
- ヴィクトール・ブニャコフスキー (1889年没)
- アレクサンドル・ボロディン (1887年没)