伝記
アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサンは、1850年8月5日にセーヌ=マリティーム県で生まれ、1893年7月6日に没した、フランスの自然主義の小説家、劇作家、詩人である。父はパリの株式仲買人で、母はロール・ル・ポワトヴァンといった。長編6篇と短篇約260篇を遺し、代表作に長編『女の一生』、短篇『脂肪の塊』がある。ゾラと異なり厭世的な傾向が強く、人間の愚かさやみじめさを描いた短編に秀作が多い。
1862年、12歳のときに不仲の父母が別居し、エトルタの別荘で母と暮らすようになった。1863年にイヴトーの神学校の寄宿舎に入ったがなじめず、1868年にルーアンへ移り、1869年にコルネイユ高等中学でバカロレアの資格を得た。1870年にパリ大学法学部へ進んだ直後、普仏戦争の遊撃隊として召集されたが、敗走した。1872年、22歳のときにパリへ出て、海軍省の小役人になった。伯父の親友で母の知り合いでもあったギュスターヴ・フローベールの指導を受けるようになり、フローベールの家でツルゲーネフやゴンクール兄弟、ゾラ、ドーデらに出会った。1875年に短篇『剥製の手』、1876年に詩『水辺にて』が雑誌に掲載された。翌1877年から、先天的な梅毒による神経系の異常を自覚するようになった。1878年に文部省へ転じた。
1880年、30歳のとき、ゾラを中心に普仏戦争を扱った同人作品集『メダンの夕べ』に『脂肪の塊』が掲載されて評判を呼び、作家としての地位を確かなものにした。「ゴロワ」「ジル・ブラス」、フィガロの3紙にも作品を載せ、のちに単行本としてまとめられた。この年、『水辺にて』と短篇『壁』が風俗紊乱の追及を受けた。このころから眼の病が悪化し、文部省を休職して、1882年に退職した。1883年の『女の一生』はトルストイにも評価され、3万部を売り上げた。同年エトルタに別荘を構え、1885年には南仏アンティーブにも別荘を買い、1886年にはヨットを持った。活発な執筆のかたわら旅にも出かけ、水辺の遊びを好んだ。婦人との交友はあったが、生涯結婚はしなかった。ほかの長編に『ベラミ』(1885年)、『ピエールとジャン』(1887年から1888年)、『死の如く強し』(1889年)があり、短篇集に『テリエ館』(1881年)、『マドモワゼル・フィフィ』(1882年)、『山シギ物語』『月光』『ミス・ハリエット』『オルラ』などがある。劇作では『ミュゾット』(1890年)と『家庭の平和』(1893年)があり、1880年には『詩集』も出し、『太陽の下に』(1884年)、『水の上』(1888年)、『放浪生活』(1890年)といった著作も残した。
1888年ごろから不眠症に苦しみ、奇行が目立つようになり、1889年には麻酔薬を乱用した。この年のパリ万博に合わせて建ったエッフェル塔を嫌い、眺めずに済むからと、塔の1階のレストランで食事をした。1891年夏にエクス=レ=バンで休養し、カンヌで冬を過ごしたが、精神の病は悪化し、1892年1月6日に自殺未遂を起こした。パリに移され、1893年7月6日、梅毒による進行麻痺で死去し、モンパルナス墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- フォード・マドックス・ブラウン (1893年没)
- ファニー・ケンブル (1893年没)
- アントニオ・ギスランツォーニ (1893年没)
- エルンスト2世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公) (1893年没)
- アルフレード・カタラーニ (1893年没)
同じ地域に関係する人物
- フロレスタン (モナコ公) (1856年没)
- Louis Felix Joseph Caignart de Saulcy (1880年没)
- ガブリエル・デストレ (1599年没)
- ヨハネス・ド・サクロボスコ (1230年代没)
- ジョルジュ・ブラック (1963年没)