HISTORICAL PERSON · 1963年没

ジョルジュ・ブラック

フランスの画家。ピカソと共にキュビスムの創始者の一人で、その発明の才にはピカソも一目置いた。第一次世界大戦を挟んで画風が変わった。

生涯
1963年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(アルジャントゥイユ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジョルジュ・ブラックは、1882年5月13日にセーヌ川沿いの町アルジャントゥイユで生まれたフランスの画家で、パブロ・ピカソとともにキュビスムの創始者の一人である。ル・アーヴルで育ち、家は職人の家庭だった。父シャルルは装飾画家で塗装業を営み、日曜画家でもあって、印象派に影響された風景画をよく描いた。1890年に一家がル・アーヴルに移ると、少年のブラックは学業に身が入らず、港の暮らしに魅せられた。それでもエコール・デ・ボザールの夜間の授業に通い、笛のレッスンも受けた。1899年に中等学校を離れて父のもとで見習いになり、翌年パリへ出て、装飾画家のもとで修業を続け、装飾画家の資格を得た。1901年に兵役に就いたのち、両親の同意を得て、絵画に専念することを決めた。

1902年にパリへ戻り、モンマルトルに住んで、アカデミー・アンベールに通った。ここでマリー・ローランサンとフランシス・ピカビアに出会った。初期にはマティスの影響を受け、野獣派に近い作品を制作した。1907年、サロン・ドートンヌのセザンヌの記念回顧展を訪れ、同じ年の11月には詩人アポリネールとともにピカソのアトリエで『アヴィニョンの娘たち』を見て衝撃を受けた。偶然にも、セザンヌとピカソの絵画にほぼ同時に影響を受けたのである。以後、レスタックとパリを往復して制作した。1908年にはセザンヌ的な構図でありながら、家を単純な立方体で表した風景画を残し、マティスは「小さなキューブ」と評した。『レスタックの家々』や『家と木』は、ブラック最初のキュビスム的作品といわれる。ピカソがアフリカ芸術への取り組みからキュビスムに至ったのに対し、ブラックはセザンヌへの取り組みから至ったとされる。1909年の冬から春にかけて、二人は初めての共同作業を始めた。

1909年にサロンへ2点を出品し、キュビスム的な絵画が初めて大衆の目に触れて大きな噂となった。ドイツ人画商カーンワイラーが急進的な画家を抱え込み、作品を自分の画廊に展示して、サロンへの出品をやめるよう諭しつつ、安定した報酬を約束していたためである。そのためブラックやピカソらを「ギャラリー・キュビスト」、レジェやドローネーらを「サロン・キュビスト」と区別することもある。カーンワイラーは海外での展示を手配し、モスクワやニューヨーク、ミュンヘンで作品が展示されて、キュビスムは世界に知られた。1911年前後には色彩を抑えた分析的な作品に文字を挿入し、1912年ごろには木目を丁寧に描き、絵具に砂を混ぜるなど、のちのコラージュにつながる試みを重ね、最初のパピエ・コレ『果物皿とグラス』を制作した。

1914年に第一次世界大戦が勃発して出征すると、ピカソとの共同作業は途絶えた。重傷を負ったとされ、帰国後も、ドイツ人のカーンワイラーからの援助はなくなっていた。1917年に画商レオンス・ローザンベールと契約して制作を再開し、1919年に個展を開いた。すでに戦前のキュビスムとは決別しており、1920年代からは落ち着いた静物画を多く描いた。小型の円形テーブルの連作などで、幾何学的な絵画から色彩豊かなスタイルへと進み、1930年代から40年代前後は、黒や灰色、茶色を主体とした静物画を手がけた。1953年からは「鳥」の連作の2点が、ルーヴル美術館の天井を飾る。1961年にはルーヴルで存命中の画家として初の回顧展が開かれた。1963年8月31日にパリで死去し、国葬が行われた。

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