伝記
ヘルマン・ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・ヘルムホルツは、1821年8月31日にポツダムで生まれたドイツ出身の生理学者、物理学者である。19世紀ドイツを代表する科学者で、その名を冠した科学賞ヘルムホルツ・メダルが今も続いている。父フェルディナントはギムナジウムの校長で、古典文献学と哲学を学び、出版者で哲学者のイマーヌエル・ヘルマン・フィヒテの親友でもあった。母は、アメリカのペンシルベニア州の創立者ウィリアム・ペンの子孫であった。ヘルムホルツの仕事は、フィヒテやカントの哲学の影響を受けており、その理論を生理学のような経験的な事柄の中にたどろうとした。若いころは自然科学に関心があったが、父は彼に医学を学ばせたがった。
1838年にベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム医学学校に入学し、医学と生理学に加えて化学と高等数学も学んだ。1842年、無脊椎動物の神経繊維と神経細胞に関する研究で学位を取得し、同年に軍医としてポツダム連隊に配属された。兵舎の中に研究室を作って実験を行い、ここでの研究が認められた。学問の経歴としては、1848年にベルリンの美術アカデミーで解剖学を教えたのが最初である。1849年にケーニヒスベルク大学の生理学教授に就任し、1855年にボン大学の教授、1858年にはハイデルベルク大学の生理学教授となった。1871年にベルリン大学の物理学教授となり、1887年以降はシャルロッテンブルク国立理工学研究所の理事を兼任した。
最初の重要な業績は、1847年のエネルギー保存に関する論文『力の保存について』である。これは、筋肉の代謝を研究するなかで、筋肉の運動でエネルギーが失われないことを示そうとして生まれた。生命力が筋肉を動かすために必要ではないということを含意しており、当時のドイツの生理学で支配的だった生気論を退けるものであった。ジュールが行ってきた熱の仕事当量の実験などをもとに、力学、熱、光、電気、磁気の間の関係を、一つの力、現在でいうエネルギーの現れとして論じ、熱力学の第1法則を導いた。マイヤー、ジュール、トムソンと並ぶエネルギー保存則の確立者の一人とされる。1882年には、熱力学の知見を化学に応用し、系の全エネルギーを自由エネルギー、温度、エントロピーに関連づけて、化学反応の方向の決定を可能にした。ギブズも独立にこれを行ったため、ギブズ―ヘルムホルツの式として双方の名が残った。
生理学では、生理光学と音響生理学の貢献が大きい。トマス・ヤングの光の三原色の理論を発展させ、ヤング=ヘルムホルツの三色説によって、残像の色彩や色盲を説明した。音色は、楽音に含まれる倍音の種類、数、強さによって決まることを明らかにし、母音に含まれる振動数と声道の形による共鳴音の関係の理論や、内耳が音の高さと音色を感知する機能の理論も打ち立てた。流体力学では、1858年に渦の運動の数学的原理を確立し、1879年には電気二重層の理論を示した。
多くの弟子を輩出し、ハインリヒ・ヘルツは彼の指導のもとで電気力学を研究して電磁波の存在を証明し、日本人の弟子には田中正平がいる。後妻は、お雇い外国人オットマール・フォン・モールの姉で、サロンの女主人としても知られ、毎週火曜に学者を自宅へ招いた。コプリ・メダルを1873年に、アルバート・メダルを1888年に受けた。1894年9月8日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ヨーゼフ・シュレーター (1894年没)
- Marc Athanase Parfait Oeillet Des Murs (1894年没)
- ウィリアム・ハート (画家) (1894年没)
- ジョージ・ピーター・アレキサンダー・ヒーリー (1894年没)
- カール・シュミット (化学者) (1894年没)
同じ地域に関係する人物
- エドゥアルト・ベルンシュタイン (1932年没)
- カール・ハインリヒ・グラウン (1759年没)
- ヨハネス・ペーター・ミュラー (1858年没)
- カール・ワイエルシュトラス (1897年没)
- アドルフ・ワーグナー (経済学者) (1917年没)