HISTORICAL PERSON · 1007年没

ウラカ・フェルナンデス

カスティーリャ伯の娘で、父の政略結婚政策によりレオン王家とナバラ王家に3度嫁ぎ両国の王妃となった。娘の一人はアル・マンスールに送られ嫁いだ。

生涯
1007年没
死亡地
County of Castilla
出生地
County of Castilla
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ウラカ・フェルナンデスは、カスティーリャ出身の貴族女性で、1007年に没した。レオン王妃に二度(951年〜956年、958年〜960年)なり、その後ナバラ王妃(970年〜994年)となった。カスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスと、パンプローナのサンチャの娘である。二人のレオン王と一人のナバラ王の妃となり、晩年には孫の摂政団の一角も占めた。

父フェルナン・ゴンサレスは政略結婚によって勢力を固める政策を採っており、ウラカはその方針に従って、941年にレオン王ラミロ2世の息子オルドーニョ3世と結婚した。オルドーニョは951年にレオン王となったが、956年に没し、弟が王位を継いだ。翌年、その王はイスラーム勢力に大敗し、貴族たちに廃位されて、従兄弟が新たな王に立てられた。これがオルドーニョ4世である。この結婚で生まれた子として知られるのは、のちのレオン王ベルムード2世(948/53年〜999年)だが、その母が誰かについては学者の間で議論がある。

958年、ウラカはオルドーニョ4世と再婚した。先王の未亡人を妃とすることで、自らの王位の正統性を示そうとしたのが、王の意図だったとされる。この結婚で二子が生まれ、うち一人はガルシアという名が知られている。やがて廃された前王がカリフの支持を得て復権し、王夫妻は追われてコルドバに逃れた。オルドーニョ4世が友好条約に署名するためコルドバを訪れた際、ガルシアは人質としてカリフのハカム2世に引き渡された。オルドーニョ4世は960年に没した。

ウラカの三度目の結婚は962年、ナバラ王サンチョ・ガルセス2世とのもので、これが最も重要な結婚とされる。二人はともにナバラ王サンチョ1世の孫にあたる。生まれた子には、のちにナバラ王・アラゴン伯となるガルシア・サンチェス2世(994年〜1000年在位、ヒメナ・フェルナンデスの夫)、992年に没したラミロ、997年に没したゴンサロ、ナバラのマリア(998年没)、そして娘ウラカらがいる。娘ウラカは982年に父によって後ウマイヤ朝の実力者アル・マンスールのもとへ送られ、「アブダ」というアラビア語名を名乗った。修道院に入る前に息子アブド・アッラフマーンを産み、祖父サンチョに似ていたので「サンチュエロ」と呼ばれた。この子は後に、カリフ、ヒシャーム2世の宰相になった。アラゴン伯領については、ガルシア・サンチェス2世は、はじめアラゴン伯領を母ウラカに任せ、のちに弟ゴンサロにゆだねた。ゴンサロは「レグルス」の称号で、領地の騎士たちからなる小さな伯の宮廷を構えて統治した。ウラカは996年から997年にかけて、ゴンサロの摂政としてもアラゴン伯領を治めた。1004年からは、孫のサンチョ3世が幼くして即位したため、嫁のヒメナ・フェルナンデスやナバラの司教たちとともに、王国の共同摂政を務めた。

ウラカは摂政団の一員として孫を支えるなか、1007年に死去し、コバルビアス聖堂参事会教会に葬られた。遺体は教会の内陣に置かれた石の墓に納められている。墓は両面開きの蓋で覆われ、正面にはカスティーリャとレオンの紋章がつけられている。赤と青に塗られた石の上には、王家の紋章と並んで、17世紀に刻まれたラテン文字の碑文も見られる。ウラカは三度の結婚を通じて、レオン王ベルムード2世とナバラ王ガルシア・サンチェス2世という、二つの王国の王の母となった。

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