伝記
バディー・アッザマーン・ハマザーニーは、969年に生まれ1007年に没した中世アラブの詩人・著作家である。中世イスラーム世界の文学ジャンル、マカーマの創始者として知られる。呼び名のハマザーニーはイランの都市ハマダーンの出身を示し、「バディー・アッザマーン」は「時代の驚異」を意味する称号である。
ブワイフ朝時代のハマダーンに生まれ、育った。幼少期や初期の教育の詳しい事情は乏しく、主要な伝記はサアーリビーによるもので、後の伝記の多くはそれに由来する。アラブ人の血筋で、タグリブ族に連なるとされる。クーファ学派の文法学者イブン・ファーリスらに師事し、早くから詩作や語りの才を見せた。記憶力に優れ、ペルシア語の詩を容易にアラビア語に訳し、書簡文を終わりから逆に書き、散文と韻文を自在に入れ替えることもできた。即興の語りも得意で、ジャーヒリーヤ時代から伝わる説教に修辞を施したり、物語性のある説教を創作したりもした。
990年、22歳のときに故郷を離れ、学問の中心地を巡る旅に出た。まずライを訪れ、かつての師に会うためだったともいわれる。そこで土豪の庇護を受け、次いでジュルジャーンに移って、マカーマを書き始め、その才能は好意的な聴衆を得た。992年にはサーマーン朝下の文芸の中心地、ニーシャープールがあるホラーサーンに入った。途中で追いはぎに何度も遭って持ち物を失ったが、作品はいっそう多くなった。ニーシャープールでは大物の文人フワーリズミーと競い、公開論争で負かしたが、のちに不和となった。この地で名声を博し、評判は一帯に広まった。
ガズナ朝がニーシャープールを征服すると、この地を去って旅を再開し、サラフス、トゥース、マルウに立ち寄った。993年にはザランジに至り、サッファール朝の君主ハラフ・ブン・アフマドの宮廷で迎えられた。君主を讃える詩を献じて、十分な報酬を受けた。スィジスターンやガズナを訪れたとする説もあるが確かな証拠は乏しく、名声が高まるにつれて伝説化した可能性が指摘される。ザランジ以後の足取りは不明な点が多い。最終的にヘラート近郊のブーシャンジに落ち着き、土地の名家フシュナーミー家と縁を結んだ。ガズナ朝のマフムードの宰相アブー・アルハサン・イスファラーイーニーの庇護も受けたが、この時期には創作が衰えた。大きな公職にはつかなかった。
ハマザーニーが生み出したのは、アレクサンドリア出身のアブー・アルファトフ・アルイスカンダリーという悪漢を主人公とし、語り手のイーサー・ブン・ヒシャームがその悪事を伝える形式の物語集『マカーマート』である。既に九世紀のジャーヒズらが集めた逸話を用いつつ、語り手に逸話を導入させ、それまで宗教や政治の文章にとどまっていた飾り立てた脚韻のある散文(サジュウ)を世俗の逸話に適用した点が革新だった。この形式は多くの詩人や作家に模倣され、一世紀後にバスラのハリーリーが大きな文芸に高めた。旅を好んだこともあり多くの原稿が失われ、現存するのは52話とも、50数話ともされる。書簡も多く伝わり、書簡集は1881年にコンスタンティノープルで、注釈付きでは1890年にベイルートで刊行され、マカーマ集も1889年にベイルートで注釈付きの版が出た。物語は乞食や詐欺師、犯罪者といった下層の人々への関心の高まりに応えるものだった。ヘラートで四十歳で没し、卒倒して仮死状態のまま埋葬されたという逸話が伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- マスラマ・ビン・アフマド・アル=マジリーティー (1007年没)
- ウラカ・フェルナンデス (1007年没)
- ギーゼラ・フォン・ブルグント (1007年没)
同じ地域に関係する人物
- Husain Waiz Kasifi (1504年没)
- ドースト・ムハンマド・ハーン (1863年没)
- アブドッラー・アンサーリー (1089年没)
- バイスングル (シャー・ルフの子) (1433年没)
- ミールホーンド (1498年没)