伝記
ジョフロワ1世は、レンヌ伯・ブルターニュ公である。980年ごろに生まれ、992年から1008年まで在位した。ブルターニュ公コナン1世と、アンジュー家出身のエルマンガルドの長男で、レンヌ伯ジュディカエルの孫にあたる。ベランジェの名でも呼ばれる。
992年に父が亡くなり、ブルターニュ公国の継承者となった。ただし公国といっても、実際にはレンヌ伯領とヴァンヌ地方、ドムノネの大部分にあたり、バス=ブルターニュの大部分はほとんど支配できなかった。継承の時点で、ブロワ伯が領地に侵入していること、ヴァイキングが海岸を脅かしていること、アンジュー伯が提示した防衛を受け入れるかどうかという問題を抱えていたという。ジョフロワはよく知られていない人物で、発給した文書が一通も残っていない唯一の公だという。
994年にナント伯ジュディカエルを破り、1000年ごろには臣従の礼を取らせた。1004年にナントの司教エルヴェとジュディカエルが相次いで亡くなると、ナント地方での支配を固めるため、レンヌ出身の騎士をナント司教に選ばせた。アンジュー伯の脅威に対しては、新しいブロワ伯が関心を東へ移して頼れなくなったため、強力なノルマンディー公リシャール2世との関係を重んじた。996年ごろ、リシャール2世の妹アヴォワーズを妻に迎えた。結婚式は国境のモン・サン=ミシェルで行われたとされ、リシャール2世もジョフロワの妹ジュディットと結婚して、同盟はいっそう強まった。
ジョフロワは父と同じくモン・サン=ミシェル修道院の庇護者で、サン=メロワール=デ=ゾンドなどの収入を修道士に与えた。修道院の再建を望み、フルリー修道院長ゴーズランに適任の聖職者を求めたところ、ブルターニュ出身の修道士フェリクスが1008年に着任した。ローマ巡礼、場合によっては聖墳墓への巡礼を企てたときには、フェリクスを妻と二人の息子に託した。イタリアへ向かう途中でパリを通り、ロベール敬虔王に臣従の礼を取ったとされ、新設のサン=マグロワール修道院にレオン修道院の再興を委ねた。
1008年11月20日、ローマ巡礼の帰途に亡くなった。その死とそれに続く反乱は、民謡「鷹」にうたわれている。遺骸は父と同じくモン・サン=ミシェル修道院のサン=マルタン礼拝堂に葬られた。アヴォワーズとのあいだには、のちにブルターニュ公となるアラン3世とエオン1世、エヴェヌス、サン=ジョルジュ女子修道院の初代院長となったアデールらが生まれた。アラン3世が生まれたのは997年である。
同じ年に亡くなった人物
- 花山天皇 (1008年没)
- Sarolt (1008年没)
- Notker of Liege (1008年没)
- メネンド・ゴンサレス (1008年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ルレイ (1998年没)
- ピエール・カンブロンヌ (1842年没)
- ジャン・ヴァンサン (2013年没)
- ジャン5世 (ブルターニュ公) (1442年没)
- ピエール2世 (ブルターニュ公) (1457年没)