HISTORICAL PERSON · 1442年没

ジャン5世 (ブルターニュ公)

賢明公と呼ばれたブルターニュ公。10歳で公位に就き、オルレアン派に接近した。1420年にパンティエーヴル家に幽閉されるも釈放され、1421年にフランスと同盟したが、1423年にイングランドへ寝返った。

生涯
1442年没
死亡地
フランス共和国(ロワール=アトランティック県 / ナント)
出生地
フランス共和国(ヴァンヌ)
出典
世界地図
フランス共和国(ロワール=アトランティック県)

伝記

ジャン5世は、1389年12月24日に生まれ、1442年8月29日に没した、ブルターニュ公およびモンフォール伯である。1399年から在位し、「賢明公」と呼ばれた。ジャン4世と、ナバラ王カルロス2世の娘ジャンヌ・ド・ナヴァールの嫡男で、のちの大元帥リッシュモンことアルテュール3世と、リシャール・デタンプの兄にあたる。

ヴァンヌのエルミーヌ城で生まれ、1399年、10歳で父を亡くした。父は、かつての政敵オリヴィエ・ド・クリッソンを子供たちの後見に指名しており、クリッソンはその務めを忠実に果たし、フランス王シャルル6世の支持を得て、継承権を主張しようとしたブルゴーニュ公フィリップ2世らを抑え、ジャンを公位に就けた。やがてシャルル6世の娘ジャンヌ・ド・フランスと結婚させられた。母ジャンヌは、1403年にイングランド王ヘンリー4世と再婚してイングランドに渡った。クリッソンはシャルル6世と相談して、ジャンと弟たちが連れ去られないよう手を打ち、ジャンは兄弟とともに豪胆公に引き取られ、フランス宮廷で育った。成長すると、フランスの内乱に巻き込まれ、1406年にブルゴーニュ公ジャン無怖公がパンティエーヴル家と縁組すると反発して、オルレアン派に近づいた。1415年10月25日のアジャンクールの戦いでは、8000人の援軍を連れて向かったが間に合わず、義弟は戦死し、弟のリッシュモンはイングランドに捕らえられた。

1417年、イングランド軍の征服を恐れて、ヘンリー5世と休戦を結んだが、リッシュモンの釈放は却下された。一方でフランスとも繋がりを保ち、1418年には無怖公とアルマニャック派の仲介に奔走したが、翌1419年に無怖公が暗殺されて、平和は遠のいた。1420年2月12日、パンティエーヴル伯と母マルグリットに、和解のための狩猟と称して呼び出され、末弟リシャールとともにシャントソー城に幽閉された。妻ジャンヌは、王太子シャルルに手紙を書き、2人の子を連れてブルターニュ議会に乗り込み、貴族たちに夫の救出を誓わせた。マルグリットは、武装した数千のブルトン人に城を囲まれて降伏し、7月にジャンを釈放した。ジャンは1421年にフランスと同盟したが、1422年にラ・ロシェルを占領され、翌1423年にはイングランドに寝返った。1424年に三者の休戦が結ばれ、1425年3月にリッシュモンが大元帥に就くと、10月にはシャルル7世と同盟を結んだ。ところが1426年に包囲に失敗し、イングランドの報復を受けて、またイングランドへ鞍替えした。

1431年、ヨランド・ダラゴンの働きかけで再びフランスと和平を結び、1432年に同盟した。ジル・ド・レはブルターニュの所領を売り払っていたが、ジャンはそれを欲しがって、1435年と1437年に土地を購入した。1440年5月にジルが教会で暴行事件を起こすと、家臣を送って捕らえさせ、10月に異端の罪で処刑した。ジルが犯したとされる罪には誇張や捏造の疑いがあり、ジャンが裁判後にジルの所領を没収したことから、裁判の正当性に疑問が持たれている。ジャンは温厚で平和的な性格で、ブルターニュ継承戦争を完全に終わらせた。常備軍と税制で公の権威を保ち、芸術と教会の後援者でもあった。1442年に52歳で死去し、嫡男のフランソワ1世が跡を継いだ。

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