伝記
カッサンドロスは、紀元前350年ごろに生まれ、紀元前297年に没した人物で、紀元前305年から紀元前297年まで在位したアンティパトロス朝初代のマケドニア王である。マケドニア王国の重臣アンティパトロスの子で、記録に最初に現れるのは紀元前323年のバビロンである。
その年、アレクサンドロス3世(大王)が高熱を発して急死した。死因は今も諸説あり、マラリア説などが一般的だが、後世の多くの史家はカッサンドロスを暗殺犯の有力候補の一人と見た。動機は、アレクサンドロスがアンティパトロスの摂政解任を決めていたことにあるとされる。ユスティヌスははっきりと、アンティパトロスの指示でカッサンドロスが王を毒殺したと述べている。カッサンドロスは他のディアドコイには見られないほどアレクサンドロスを憎んでいたようで、のちに大王の遺族をほぼ根絶やしにして王位を奪った。異母兄ピリッポス3世、庶子ヘラクレス、嫡子アレクサンドロス4世はいずれも殺害されている。
バビロン会議でカッサンドロスはカリア太守および近衛長官に任じられ、紀元前321年のトリパラディソスの軍会ではカリア太守および千人隊長となった。紀元前319年に摂政の父が死去し、地位は老将ポリュペルコンに譲られた。摂政位を望んでいたカッサンドロスは不満を抱き、プトレマイオスに密使を送り、狩りの振りをしてヘレスポントスを渡り、アンティゴノスとも結んでポリュペルコンに対抗した。やがてポリュペルコンの艦隊を壊滅させ、紀元前317年に自身の摂政位を宣言した。そのころ大王の母オリュンピアスがエペイロスから帰国し、ピリッポス3世とその妃エウリュディケ2世を殺害したとの知らせが届く。カッサンドロスはマケドニアに戻ってピュドナを包囲し、救援に来たエペイロス王アイアキデスを破った。冬にピュドナを完全に封鎖すると、市内は死体を食べる者まで出る惨状となった。脱出を試みたオリュンピアスは捕らえられて殺された。同時にアレクサンドロス4世と母ロクサネをアンフィポリスに軟禁し、大王の異母妹テッサロニカと結婚してアルゲアス朝と結びつき、王位継承権を得た。
紀元前316年にはギリシアに入り、大王に破壊されたテバイを再建した。同年、セレウコスの呼びかけでカッサンドロス、リュシマコス、プトレマイオス、セレウコスによる対アンティゴノス同盟が結ばれた。アンティゴノスが台頭し、他のディアドコイとの対立を深めていたためである。カッサンドロスはペロポネソスやアイトリア、アカルナニア、イリュリア方面へ遠征し。紀元前310年にロクサネとアレクサンドロス4世を処刑し、翌年にはポリュペルコンに賄賂を送って、彼が擁していた大王の庶子を殺させた。こうして王位継承権を持つのは王女テッサロニカを妻とする自分だけとなり、紀元前305年に王位を主張した。これは前年のアンティゴノスの王位宣言に対抗する意味もあった。紀元前301年のイプソスの戦いでアンティゴノスが敗死し、カッサンドロスは名実ともにマケドニアの支配者となった。
紀元前297年、カッサンドロスは浮腫で死んだ。後継者としたピリッポス4世は1年と経たずに死去し、弟のアレクサンドロス5世とアンティパトロス2世が共同で即位したが、互いに王位を争った。イプソスで敗れたアンティゴノスの子デメトリオスがこれに介入し、アレクサンドロスを殺害して自らマケドニア王となった。混乱の中で妻テッサロニカもアンティパトロスに暗殺された。カッサンドロスは大王を憎みながらも、テッサロニカとの間に3子を儲け、都市テルマを妻の名にちなんでテッサロニカと改名した。
同じ年に亡くなった人物
- ピリッポス4世 (紀元前297年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハネス7世パレオロゴス (1408年没)
- ペラのアルコン (紀元前321年没)
- ピリッポス5世 (紀元前179年没)
- ティウディミール (470年代没)
- Patriarch Neophytus VIII of Constantinople (1909年没)