伝記
ヨハネス7世パレオロゴスは、1370年に東ローマ帝国パレオロゴス朝の帝位継承者アンドロニコス4世と、ブルガリア皇帝イヴァン・アレクサンダルの娘であるキラツァ・マリアの一人息子として生まれた。祖父は皇帝ヨハネス5世である。王朝では皇帝や皇子たちが協力できず、内紛が帝国に不利益をもたらしたとされる。当時の主敵はオスマン朝で、14世紀を通じて旧帝国領の広い地域が奪われ、ヨハネス5世もスルタンのムラト1世に臣従する立場にあった。
1373年、ヨハネス5世がムラト1世との臣従の取り決めに従ってアナトリアの遠征に加わっている間に、アンドロニコスはムラトの息子サウジ・ベイと示し合わせて、それぞれの父に対する反乱を起こした。反乱は数か月で鎮圧され、サウジは目を潰されたうえで斬首された。アンドロニコスも目潰しの刑を受けたが、ヨハネス5世が乗り気でなかったため処置は不完全で、片目を失ったにとどまるようだとされる。幼いヨハネスも三歳ほどで同様の刑を受けたとする資料がある。アンドロニコスは継承権を失い、弟のマヌエル2世が後継者に指名された。1376年にアンドロニコスが脱出して首都を奪い、帝位に就くと、ヨハネスは共同皇帝となったが、1379年にマヌエルとヨハネス5世によって父は廃位され、ヨハネスも父とともにコンスタンティノポリスを追われて、トラキア沿岸のセリュンブリアに逃れ、オスマン朝の保護を受けた。
1385年に父が死ぬと、ヨハネスはその権利を引き継いだが、ヨハネス5世は後継者にマヌエルを望んでいた。1390年、ヨハネスは新たなスルタンのバヤジット1世やジェノヴァ人の支援を受けて祖父を攻め、首都に入って4月14日に皇帝として戴冠した。しかし首都市民の支持は極めて低く、少数の臣下に歓呼を強制させたとも言われる。ヴェネツィアの支援を受けた祖父は、マヌエル2世と合流して反撃し、この政権は9月17日に約5か月で崩壊した。1391年に祖父が死ぬとマヌエルが皇帝となったが、ヨハネスは正統な皇帝であるとの主張を捨てず、叔父との緊張は帝国を何度か内戦の寸前に追い込んだ。両者の間では共同皇帝の地位や継承をめぐる取り決めが幾つも結ばれたが、マヌエルはそれを限られた範囲でしか守らなかったとされる。1397年にはレスボス島領主フランチェスコ2世ガッティルシオの娘エイレーネーと結婚し、息子アンドロニコス5世をもうけた。
1394年からバヤジット1世が首都を包囲する中で、1399年にマヌエルは西欧へ援軍を求めに出発し、和解した甥のヨハネスに摂政を任せた。ヨハネスはオスマン朝との内通を疑われながらも、約三年半にわたって首都を守り、降伏を拒んだとされる。一方で、重臣たちと開城の交渉を練っていたとも言われている。1402年のアンカラの戦いでバヤジットが敗れると、ヨハネスはその息子スレイマン・チェレビと交渉して、テッサロニキが帝国の手に戻る協定をまとめた。ところが1403年に帰国したマヌエルはヨハネスを不興のうちに遠ざけ、両者は再び敵となったが、数か月後に和解し、ヨハネスはテッサロニキを領有して皇帝の称号を認められた。以後1408年に死ぬまで、ヨハネスはここで「全テッサリアの皇帝」として自らの宮廷を構え、市民から有能な統治者とみなされて、教会の問題や城壁の強化に取り組んだ。1407年に息子アンドロニコス5世が夭折し、その死への失望が父の死期を早めたとも言われる。翌1408年9月22日、ヨハネスはテッサロニキで死去し、マヌエル2世はただちに市を確保して、自分の三男アンドロニコスに統治を委ねた。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァランティーヌ・ヴィスコンティ (1408年没)
- 足利義満 (1408年没)
- ジョン・ガワー (1408年没)
- ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯) (1408年没)
- ミーラーン・シャー (1408年没)
同じ地域に関係する人物
- パウサニアス (マケドニア王) (紀元前393年没)
- アンリ1世 (ラテン皇帝) (1216年没)
- カロヤン・アセン (1207年没)
- Yannis Boutaris (2024年没)
- アルケタス1世 (マケドニア王) (紀元前547年没)